村上春樹の優れた音楽エッセイ

意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない

いったいフランツ・シューベルトはどのような目的を胸に秘めて、かなり長大な、ものによってはいくぶん意味の汲み取りにくい、そしてあまり努力が報われそうにない一軍のピアノ・ソナタを書いたのだろう? どうしてそんな面倒なものを作曲することに、短い人生の貴重な時間を費やさなくてはならなかったのだろう

村上春樹の音楽論集『意味がなければスイングはない』所収の「シューベルト『ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調』D850 − ソフトな混沌の今日性」の冒頭の一文である。シューベルトのピアノ・ソナタを知っている人ならば、どうしても彼のソナタになじめない人も、その不思議な魅力にとりつかれた人も思わず頷きたくなる自問の一節。そう感じたとたんに読者はこの一文の虜になっている。クラシック音楽を巡るエッセイとして、こんなに魅力的な文章を読んだのは久しぶりだ。

村上春樹が相当の音楽好きであり、その守備範囲がジャズを中心にロックからクラシックまで幅広く及んでいるのは、彼の小説やエッセイの読者には自明の知識に属する。そんな彼が音楽エッセイストとしての技量を衆目に示したのが、この一冊だ。

十の比較的長いエッセイはスタン・ゲッツウィントン・マルサリスブルース・スプリングスティーンブライアン・ウィルソンといったアメリカの音楽家たちを中心にしながらも、スガシカオからシューベルトまで長い射程を究める。十のうち、クラシック音楽に属するものが、このシューベルトに「ゼルキンルービンシュタイン」「日曜日の朝のフランシス・クープラン」の三本含まれている。二人の大ピアニストを陰と陽、硬と軟の対比で描いた「ゼルキンルービンシュタイン」は、構図が図式的にすぎてあまり楽しめなかった。十本の中ではもっとも凡庸かもしれない。しかし、シューベルトはその反対で、ここに納められたエッセイの中でクラシック好きには忘れられない逸品に仕上がっている。

村上の思い入れが直裁に響いている「スタン・ゲッツの闇の時代 1953−54」も素晴らしいし、村上が翻訳家としての名声を確立したレイモンド・カーヴァースプリングスティーンの相似性を炙り出した「ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ」に一票を入れたくもなる。人気投票をすれば、むしろ、それらの作品に支持の票が集まるはずだ。しかしそうした村上=アメリカのイメージと率直に呼応する文章に比べると、肩の力が抜けたスケッチでありながら、いや、むしろ力が抜けた演奏論であるが故に、この「シューベルト」には彼が語るべきことが語られている。そんな風に思わせられるエッセイだ。

アメリカ文化と切っても切れない村上春樹の文学だが、この人はそうとうクラシックを聴いているなと思わせる表現が小説やエッセイのここそこにちりばめられている。僕が今思い出すのは、『羊をめぐる冒険』で「先生」の秘書のところにリムジンで連れて行かれる「僕」がバッハの無伴奏チェロソナタを運転手に要求するシーン、『海辺のカフカ』で主人公のカフカくんが高松の図書館で知り合った「大島さん」の車で高知の山中にある彼の別荘に連れて行かれる際にカーステレオから流れてきた音楽−それはとりもなおさずシューベルトニ長調ソナタその作品なのだが−について大島さんの蘊蓄を聞く場面だ。

そうした村上さんの音楽知識を思い起こし、彼が我が国を代表する言葉の専門家であることを省みれば、エッセイのひとつで何ら驚く必要はないのかもしれない。しかし、吉田秀和さんを除けば、クラシック音楽の演奏を扱い文学としても成功した例はそれほど多くはないことを思い起こすとき、村上さんの技にはやはり大いに感心させられる。

このエッセイの中で村上春樹は彼自身が知っている15の演奏を並べている(順不同です)。


1.ウラディミール・アシュケナージ
2.アルレート・ブレンデル
3.アルトゥール・シュナーベル
4.スヴァトスラフ・リヒテル
5.ユージン・イストミン
6.イングリッドヘブラー
7.内田光子
8.パウル・バドゥラ=スコダ
9.アンドラーシュ・シフ
10.ヴルヘルム・ケンプ
11.クリフォード・カーゾン
12.ミシェル・ダンベルト
13.エミール・ギレリス
14.リーフ・オヴェ・アンスネス
15.ヴァルター・クリーン


よく聴いているんで関心してしまう。で、村上春樹が推す演奏家が誰かといえば…、と書きたいところだが、ここから先はネタバラシになるのでやめておきます。