初めての読響

2月に1度、3月に1度、サントリーホールでオーケストラのコンサートを聴いた。今年のコンサート通いの最初は2月18日に下野竜也指揮の読売日本交響楽団ブルックナー交響曲第5番一曲というプログラム。これはとてもよいコンサートだった。

めぐり合わせというべきか、何なのか、東京のオーケストラの中で読響だけは聴く機会が一度もないままに過ごしてきた。オーケストラのコンサートに行き始めて40年近く経つが、コンサートなんて行かなければ行かないですむ類の趣味の存在だし、少しでも新しいもの、未知の団体を探求したいという気分に欠ける私のような保守的な聴衆となると、そういう事態は容易に出胎する。開高健のエッセイに、パリの下町に住みながら、数ブロック先のセーヌ川を見たことがない職人のおじいさんに出会う話があったはずだが、その種の御仁に比べれば、読響を聴いていないなんてどうということもないと自分自身に言い聞かす。しかし、オーケストラによる音楽が好きなくせに、これだけの有名オケを無視し続けてきたのだから、セーヌ川を知らないおじいさんと自分との間に相照らす部分はあるのではないか。そうだとしたら、そのある種の頑迷さは、何なのだろうと思わざるをえない。その話は脇においてコンサートの感想に戻ることにするが。

初めて聴く読響は素晴らしいオーケストラだった。このクオリティであればチケットが売れて何の不思議もない。今まで機会がなかったのは、「このコンサートに行ってみようかな」と思っても、開催日のひと月前ぐらいに動く自分のようなノンシャランな聴衆にとっては、たいがいS席以外は売り切れている読響は買いにくいオケであるというのも理由のひとつだったのだ。今回、聴いてみて、売れる理由があるのはよく分かった。

しかし、意外の感に打たれた部分も。
昔、と言って差し支えないほど以前、しばらくお世話になった方に読響団員のお友達がいる方がいた。その方から、当時、読響の評判をそれとなく伝えられていた。弦がいい。いぶし銀。N響より上。そんな言葉が記憶には残り、どうやら読響シンパという人種が東京の近辺にはいるらしいという認識も植え付けられることとなった。

そういう記憶があるものだから、読響というと、なんとなく年上のおじさんがいっぱいというイメージだったのだが、コンサート開始のベルが鳴って、入ってきた楽員さんのみな若いこと。オレみたいなハゲたおっさんなんかほとんどいないじゃん、と分かった途端、なんとなくこれまで心に留めてきた「読響」はすでにここにはないことを了解した。いつの間に、そんな時間が流れたのかと、最近いろいろな場所で思いを致すのだ。

若い読響の音は、思い描いていたいぶし銀というイメージよりも薄めのきれいな音で、しかし、まとまりのあるよいオケの音がした。ある木管のトップは気に入らなかったけど。ブルックナーの5番、期待以上によかったすよ。