フランソワ・リリーのリヒャルト・シュトラウス

フランソワ・リリーという、いかにもフランス人らしい名前のオーボエ奏者を生まれて初めて聴いて、あまりの素晴らしさに度肝を抜かれた。
6月17日のNHKホールで行われたN響定期演奏会でのことで、ここでリリーはリヒャルト・シュトラウスオーボエ協奏曲を吹いた。最初のパッセージが紡ぎだされた瞬間から、リリーの音は五臓六腑にしみて、あとはあまりのうまさに曲の終わりまで感嘆させられっぱなし。ドキドキが止まらない瞬間の連続だった。こういう体験はしばしばできる類のものではなく、最近では去年聴いたデニス・マツーエフのピアノがこれに似た感覚だったが、それよりもなによりも、今から30数年前に、生まれて初めてゴールウェイを聴いた時の驚きにそっくりだった。
知らないとはこういう場合にはよいことで、事前知識がこれっぽっちもなく、これから私はリヒャルト・シュトラウスオーボエ協奏曲を聴きますという以上の期待がないところに信じがたいような名人芸に出くわすドキドキはたまらない。
それで手元のプログラムを見れば、この人は19歳の時からパリ管の奏者をやり、21歳からバイエルン放送響の主席を10年以上務めた後にソリストに転じた今をときめくスター奏者で、知らないのは私だけだったのかもしれない。クラシックの演奏家に関する知識が偏っており、自分より若い演奏者の情報はあまり持っていないので、こういうことが起こる。嬉しい誤算といったら名人に怒られるが、気分はそんな感じ。こんなすごい演奏に出会えた夜は最高で、その余韻は一日半経った今でも持続している。

リリーが吹くと、その瞬間にオーケストラの音がくすんで感じられた。あるいは彼の周りだけ、特別のスポットライトが当たったように思われた。俺はすごいんだぜ、と吹聴したり、ほのめかしたり、みたいな輩は世の中いくらでもいるが、そうやって人間は自分のプライドを生きる糧にしているところがあるが、こんな風に出会ったその瞬間に彼の持っている価値を有無をいわさず万人に向けて指し示すのだから、アーティストの生き様はすごいわと思う。
輝かしい音色、いくらでも動きまわる指、pppからfffまで余裕で表現できる振幅の幅を持つ音量、そして何よりも音楽を表現するためにそれら彼が持っているテクニックを自在に活用できる音楽性の高さ。リリーが吹くと、まるで音楽がその場で生まれ出るようだった。リヒャルト・シュトラウスのように、表現力過多と言いたくなるような技巧的な音楽にリリーの感性はぴったりだったこともこうした印象に輪をかける理由だったかもしれない。でも、ここまで雄弁なこの曲の演奏を録音でも聴いたことがない。普通なら、あれはやり過ぎだと感じられるのではないかと疑いたくなるような、洒落た語り口が満載で、派手さがない、もっとおとなしめの曲にリリーの感性が合うのかどうか、奏者がそうした曲で楽しめるかどうかは疑問符がつく。ゴールウェイのフルートがそうであるように奏者が前に出すぎてウザいと見る向きもありそう。ヴィルトゥオーソと言われる人は常にそうかもしれないけれど。

ところで、この日はN響の定期で指揮者はアシュケナージ。なんとアンコールで指揮者氏がピアノ伴奏にまわり、会場はやんやの喝采と相成った。曲目はグルッグの「精霊の踊り」で、別にその曲をこの二人で聴かんでもという選択肢だったが、ともかく舞台の袖に置いてあったグランドピアノが急に運ばれてくるのはエンターテイメントとしては抜群の演出だったし、アシュケナージが精霊の踊りを譜面を見ながらまじめに弾く姿はとても可愛らしかった。
オーボエ協奏曲の前後は、「ドン・ファン」とブラームス交響曲第3盤だった。Eテレで放送されると思うので、お好きな方はぜひ聴いてみてください。