私の「吉田秀和」

吉田秀和さんが亡くなった。クラシック音楽の関係者やファンが読む、世間的には知る人ぞ知る存在だと思っていたら、「ひびの入った骨董」発言や、文化勲章受章やらがあり、吉田さんはいつの間にか音楽好きばかりではなく、広く知られる、多くの人々に敬愛される存在になっていた。

そうではあるのだけれど、吉田さんは常に変わらず吉田さんのままで、吉田さんと「わたし」の間には世間も、時代もなく、ただ音楽だけがある。音楽好きにとって、そのようなたおやかな思いを抱ける著述家は吉田さんだけだった。

初めて「吉田秀和」に出会ったのは中学生の頃だった。NHKのFM放送と学校の図書室にあった単行本と、先に接したのがどちらだったのかは覚えていないが、ともかくもそれからちょうど40年の付き合い。なんで中学校なんかに吉田秀和なんかがあったのか、不思議といえば不思議なのだが、その図書室には吉田さんの著作ばかりでなく、遠山一行だとか、黒田恭一だとか、音楽評論家の評論家の本がいくつか置いてあったはずだ。なんだかませた中学生のようにも思うが、吉田さんの文章は、彼が音楽好きであれば、中学生にも、大学生の私にも、中年の私にも、まったく同じように訴えかけ、響くのだった。

懺悔の時間である。中学校を卒業する間際、僕はその図書室から一冊の本を抜き取って家に持って帰った。そのうち返そうと思いながら、返すき機会を失ってしまった、というのは単なる言い訳にすぎない。人生で唯一の窃盗を行った対象は吉田秀和著『世界の指揮者』だった。


世界の指揮者―吉田秀和コレクション (ちくま文庫)

世界の指揮者―吉田秀和コレクション (ちくま文庫)