最近の小澤さんの印象についてもう少し

小澤征爾さんの最近の、いや最近のというのは、この1,2年のという意味だけれど、手術をして指揮台に帰ってきた後の映像をNHKで2度ほど見たが、その仕事に対する執念はますます凄みを増している感があり、まさに鬼気迫ると言ってよいほどだ。今の小澤さんを見ていると、たかだが数十分の映像に接しただけなのに、その戦う姿勢に肺腑をえぐられるような気持ちにさせられる。いや、正直なところ。

しかし、この前書いたとおり、だからと言って、カーネギーの録音の小澤さんが最高の演奏を残したとは思わない。思わないが、そこで私が書いている良し悪しというのはなんなのだろうと煩悶に誘うだけの凄みが大病をおして指揮台に立つ小澤さんから発散されていたはずで、実演に接した聴衆は録音に記録されていない濃密さでそれを感じたことだろう。それは信じない訳にはいかない。

その特定の場所と時間に立ち現れる、一期一会のなにものかを認めてしまうと、今度は実演の罠にはまってコンサート通いが始まる。そういうことを一度は経験してきた身として今思うのは、いやコンサートだって、CDの体験だって、ワタクシにとってはしょせん他人ごと。どっちがどっちなどと言うのはやめときましょうということぐらいか。という言い方が斜に構えて聴こえるとすれば、そのどちらにも感動の源泉は隠れていると言い直してもいいけれど。

これは昔から小澤さんの言動に接していて感じることだが、彼は勉強を重ねれば重ねるほど、人間には見えてくるものがあると信じているところがある。以前よりも、今。今よりも明日の演奏に何かがあるはずだと考えているのではないかと思う。本当にそうかどうかは知らない。知らないが、スクーターにまたがった20代の青年と同じように70半ばの人間がそれを信じている。そのことに心底賛嘆の念を覚える。戦後の経済成長と軌を一にして成功を手中に収めてきた人生。

ところで、話は戻ってブラームスの1番についてだが、かつて、若い小澤さんの録音を初めて聴いたときにびっくりしたのは(たぶん私だけではないはずだが)終楽章のクライマックス、楽章の前半で奏でられる印象的なトロンボーンファゴットによるコラールのテーマが金管と弦のきらめくばかりの強奏で戻ってくるところで、楽譜にないティンパニーが加わることだった。ターン・タッタ・ターンのアウフタクトの「タ・ターン」のところで、「タ」に思いがけないティンパニーの力強い一撃。続いて「ターン」にさらに力強いトリル。その後の、80年代のサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏でも同じスタイルがとられていたはずで、ブラ1のクライマックスとしては最も派手な改変じゃないだろうか。最新版では、この小澤風アレンジはなされていない。「ゲテモノだ!」とか言っていたくせに、ないと寂しい気がする。私は小澤さんとは違って、究極の進歩論者ではないのだ。とかなんとか。


ブラームス:交響曲第1番

ブラームス:交響曲第1番