新日フィルで聴くリンドベルイ、鏡としての音楽

先日、会員の友人のピンチヒッターで新日本フィルの演奏会を訪れた。昨年の小澤征爾によるブルックナーの1番以来のオーケストラコンサートである。曲目はシベリウスの『トゥオネラの白鳥』、リンドベルイのクラリネット協奏曲、ブラームスのセレナード第1番。リンドベルイのクラリネット協奏曲が抜群に楽しめた。この人はフィンランドの作曲家で1958年生まれというから、まだ51歳の若さ。僕は名前はともかく実際に聴くのは初めてで、もらいもののチケットからじゃないと生まれないこうした邂逅も、またコンサートの楽しみである。

クラリネット協奏曲がリンドベルイの作品のなかでどのような位置を占めているのか分からないが、今世紀になってから書かれた新しい曲で、セリー的な音響から、ジャズ的なリズムや音色、伝統的なオーケストラの響きからクラリネットの妙技まで聴ける技法のごった煮な、あっけらかんとした作品。思想色がないのはひとつの思想であるとすれば、この人には現在が現れている。モダンを突き抜けた場所にある現在は、おそらくこういう場所なのだろう、というのが、僕が初めて聴いた、このフィンランドの作曲家の一作に対する感想。この曲の色を形容するのが難しく感じられるのは、僕が現在をそのようなものとして捉えているからだという理屈が逆説的には感じられないのは、やはりこの曲が鏡としての何かである証拠であると言いたくなる。シベリウスのことを書いた最近のものを読んでいると出てくる名前なのだが、ともかく、その方面の知識はなにもないので、フィンランドの作曲家というカテゴリーをことさら意識するべきかどうなのかも心許ない。

リンドベルイをサンドイッチする二曲は、これとは対照的に、作曲家の色の濃い作品である。『トゥオネラの白鳥』は『フィンランディア』よりも前の、若いシベリウスの作品だが、もうこの頃から彼は、叙情的という言葉の表面的な響きを超えた生来的な叙情性、心の傷のような悲しみを音として表現する術を身につけていたことが分かる。シベリウスは、そうしたものを表現として洗練するだけの音楽家としての人生を過ごしてきた。これでもよい、後期の研ぎ澄まされた表現ではなくても、と思うと、少し人の人生というものに対して悲しくなる。そう思うのはよろしくない。

同じ若書きではあるが、ブラームスのセレナード第1番は、シベリウスとはまた対照的に元気のよい、紛うことなき若さの発露というタイプの曲。リンドベルイのオリジナリティと、その前後の大家のオリジナリティとを比べると、少なくとも音楽の世界では、いったん解体をめざした振り子が戻ってきて、次の方向に振れる谷がいまだという感想を僕は抱いた。また、このコンサートを、リンドベルイを境界線のように置いて、対照的な若者の2曲を聴かせたという解釈もできるわけで、今回の選曲の妙には拍手を送りたくなった。ただ、演奏それ自体は、きれいだったけど、僕のなかに浸透する何かが足りなかった。演奏の問題か、聞き手の問題かはよく分からない。