ドビュッシーの音楽、分類、資質

音楽を聴くのは好き。でも、かなり偏った嗜好しかもっておらず、いろいろな曲を聴きたいという情熱が足りないので、自分から積極的に接する範囲は限られたまま。フランスものはその最たるもので、名曲を聴けば「よいなあ」とは思うが、繰り返し聴く気にならないのだから、本当に心の底から好きというわけではないのである。

人に借りて読んだ坂本龍一の自伝『音楽は自由にする』によれば、この人は、たしか中学生だったか、いやまだ彼が小学生の頃の話だったか、もう忘れてしまったが、ともかく子供の頃にドビュッシーを初めて録音で聴いて感動し、自分はドビュッシーの生まれ変わりじゃないかと思ったと考えたのだという。

僕はその話を読んで考えた。そう、今日のmmpoloさんのブログエントリーに分類の話(「分類について、池田清彦と三中信宏」(2009年10月31日))があるけれど、ドビュッシーに感嘆するかしないかが、僕の中では音楽に対するひとつの大きな分かれ目、分類の基準になると、直感は自分に向けて告げる。さらにこわごわ言うと、そこに自分だけじゃなく他の人たちにも適用可能な、もっと一般的、普遍的な音楽に対する態度の分かれ目があるのではないかと想像しているのでもある。

僕の場合、ドビュッシーに心の底で理解し感動したことがおそらくなく、彼が世の中にその存在を明らかにした、いわば気持ち悪いものに気持ちよさがやどることを理解するという感性から見放されているのだと思う。いや、それを「気持ち悪い」と言い放つこと自体、自分がどちらの側にいる人間なのかを知らされる話ではある。僕とは別の側に分類される人たちにとっては、それこそが気持ちよい対象であるはず。まれにフランス近代の録音に手を伸ばしたりするが、結局ほとんど聴き直すことがない。何をめぐって話が進んでいるのかと考えると、結局ドビュッシーのあの和声、当時、どんなに新しかったかしれない解決しない不協和音に対する嗜好に話は収斂していくのではないか。子供の頃から音楽を勉強し、協和音の世界をピアノ演奏の修練のなかで叩き込まれていた坂本龍一は、ドビュッシーに出会う前にドビュッシー的な和声を自らの中に発見していたらしい。早熟の天才というのは、そういうもんなんだなとおそれおののく。比べるのは気が引けるが、僕はどれだけ聴いても、いまだにそれが体の中に入ってこないというのに。


音楽は自由にする

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