観客席の阿鼻叫喚の中に人生の意味はあるのかもしれない

黒い霧事件以降の西鉄から太平洋クラブ、クラウンライター(それにしても、なんというとほほなマイナー企業!)のライオンズファンだった。5位、6位が毎年の指定席の弱小球団で、たまに4位争いなどしようものなら、優勝争いに加わったような気分で応援に熱が入った。いまでも思うが、万年ビリが一つ上に上がるうれしさは、ときに優勝争いと同じか、それと同様の感興をファンにあたえてくれる。ときどき球場にいくと、数千の同じような思いがこだましているのが、観客席のどよめきや、ためいきや、悲鳴のなかにはっきりと分かるのである。

加藤初東尾修といった主戦級投手に思いを託し、玉井、永射といった、おそらくこれを読んでいる人のほとんどが知らないか覚えていないであろう、英語で言うところの「mediocre」なプレイヤーに魂を引きずられ、順位の上限に一喜一憂する。ライオンズが西武に買われて所沢にいってしまい、真弓、竹ノ内といった生え抜きのひいき選手が阪神にトレードに出て、昔のライオンズがライオンズではなくなってしまうまで、プロ野球には特別な思い入れがあった。

その反動で、一円の得にもならないのに他人の活躍を見て喜んでいるなんて、なんて馬鹿らしいことだろう、と一時期スポーツ見物から遠ざかった時期もあった。これはどうも自然な気持ちというよりも、かわいらしいけれどある種のイデオロギーのようなもので、イデオロギーであるが故にはぎとるのがむずかしいという側面を持っている。マルクス主義を信奉するか否かといった深刻な話ではないのだけれど、どちらにつくべきかを考えると、なんだか心のなかがすっきりしないのである。

最近、またまた大きな反動があり、どこかのチームに入れあげるスポーツ見物は素敵な行為なのではないかとちょっと思い始めている。山岸俊男先生の「安心と信頼」の論を読んで、この思いを理論的に補強された気分になり、つまりこれは信頼を基に社会をつくる一種の実践なのではないかと理屈っぽく考えているところ。ここから先は山岸俊男を離れるのだが、最終的に私があるという幻想が正しいかどうかは分からないということだ。これは私を一生懸命に駆り立てた先にしか立ててはいけない問いのような気もするが、それはさておき。

ところで、昨日のドラフト会議で、現在の贔屓チームであるホークスが明豊高校の今宮君を引き当てた。夏の甲子園大会をテレビで見て、もっとも目についた選手が今宮君だったので、うれしくて仕方がない。


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