いつもの土曜日

梅雨の合間の湿気を含んだ晴れの土曜日。日陰のない場所に腰を下ろして子供の野球見物をしたら、あっという間に腕は赤い色に染まり、Tシャツの跡がくっきりと上腕につく。いわゆる土方焼けである。土方なんていうのは、いわゆる差別用語なのだろうなと思うが、なじんでしまった表現は自然と意識に上り、そういうのは問題発言かも知れないとか、言ってはいけないとか、あれこれと考えて口に出したり、出さなかったり。面倒くさい世の中だ。

ここしばらくiPhoneの新機種の話題をあちこちで耳目にするが、あまり興味がない。iPhoneなんか持ったおかげで、けっこう重宝するようになってしまい、「iPhoneがないと不便だ」と思ってしまったりする。なんと面倒くさいことだろうと思う。これ以上高機能になって、便利になって、ますますiPhoneがないとやっていけないなどと考え出したら最低なので、どういうでもいいと思うようにしている。いつの間にか買っていたりするかもしれないけれど。

twitterは自分では書かずに、人のポストを読むことだけを続けている。やはり自分には向いていないと感じる。なぜだろうと思いながら、また読むということを続けている。たぶん、三上さんがおっしゃった危険さから遠い雰囲気がいやなのだろうなとは思うのだが、そんなことを言ったら、これは角が立つので表立っては言わないことにする。それにそんなことを言うのであれば、この文章は何?と思う。量が長いtwitterでしょうと自分自身に言ってみる。

面白いもので、こうした誰かに読まれている場所で何かを書き連ねることに対して慣れてしまうと、電子メールの、閉ざされた空間で特定の相手とのやりとりが焼けに新鮮で貴重なものに感じられたりするのは不思議だ。ここ数日、そんな時間を過ごし、おかげでブログを書く時間を逃してしまったが、はたしてブログというメディアがこれからどのように受容されていくのか、どのように変化していくのか。

村上春樹のことだとか、ブルックナー交響曲のことだとか、本というメディアのことだとか、軍の発砲を受けて白目をむいて死んでしまったテヘランの女の子とのことだとか、その家族のことだとか、大分のことだとか、いろいろと考える。たぶん、これからますます収縮して効率を落としていく脳は、十年一日のように、そうしたトピックをめぐってぼんやりとした思いを発光させ続けるのだろう。