「する/される」関係

大子、東京、大分と盛大に続いた秋のシュンポシオンが終わったと思ったら、今度は伊勢と札幌にまた火の粉は飛んだ。「次は横浜、12月」と思っていたら、とんでもなかった。hayakarさんの札幌行は一月も前から計画が練られていたらしい。いやはや、皆さんの前向きなエネルギーにあらためて感服するしかない。


■こんど近藤さんとお会いします!(『天ニ星 地ニ花 人ニ愛 ☆ 吉岡 和幸ノブログニ御座候』2008年10月21日)
■こんど吉岡さんとお会いします!(『工場統計力学(建設中)』2008年10月22日)

■いざ北へ(『hayakarの日記』2008年10月22日)
■hayakarと行くishkar:水の記憶の巡礼(『三上のブログ』2008年10月21日)
■hayakarと行くishkar その2(『三上のブログ』2008年10月22日)


「会いましょう」「会いに行きます」ってフレーズがメールやブログ上で時候の挨拶に毛が生えた程度の気楽さで普通に飛び交って、リアルの世界では初対面の同士が「こんにちは」「どうも」と笑顔で挨拶し合い、「りんちゃーん!」てな調子で遠路はるばる足を運んできた相手を出迎える。そんなふれあいから生まれたさまざまな感情や、思考や、理念の萌芽が、あるいは心に定着した静かな感動や、そこから生まれる倫理観がブログを通じてそれを読んでいる人たちに伝播する。

このシュンポシオンの空間が素敵なところは、「する/される」関係が当たり前のように基調になっている点だ。このことについて最近しばしば考える。
若い頃は「おれが、おれが」しかない。社交的であるか、内向的であるかは別にして、世の中はおれを中心にして同心円を描いている。しかし、「おれってなんだろう」と考える年齢を経て、そのうち消えてなくなる生物としての自分という存在がそれとなく腑に落ちるようになってくると、「そのうちなくなる身なんだから、それまでできるかぎり毎日を楽しまなくっちゃ」という気持ちと「自分なんて有限なんだから、無限に向けて自分自身を開いていかなくっちゃ」という気持ちとが同時に浮かんでくるようになる。その二つの思いを成し遂げる方途として、他者との交わり、つまり「する/される」関係を深めるということが重要なのだと、動いてみた結果として思い至る。これが僕にとってのブログであり、シュンポシオンである。とりあえず現時点では、そう言って間違いないという気分の中にある。

tsuyokさんが河合隼雄さんの言葉を引用しているが、いまブログを通じて起こっていることを見聞きしていると、実に真実味のあるフレーズに聞こえてしまうのだ。

僕がすごいと思うのは、仏教の「華厳経」の考え方は、関係性が優先していますね。感激しますね。個があるけども、個があっての関係というのじゃなくて、関係そのものが優先しているんですよ。だから「私」というのはないんです、「華厳経」でいうと。個の「私」はなくて、関係の総和が「私」なんだと。
(「関係性について」(『われ思う、故に…』2008年10月22日))