天上の星

社内の各部署ではこの数日、相次いで忘年会が開催されている。はや今年もみそぎの儀式をする時期になったかと、時の経つ感覚が明らかに早まっている自分に驚く。小学生の頃にはあんなに長かった一年が、どんどんと短くなり、相対化され、今年と去年、去年と一昨年、その前の一年、そのまた前の一年との見境がつかなくなっている。こうした先に、年と年どころか、月と月、日と日の区別がつかなくなる日が来るのかもしれない。その頃まで生きながらえることができたら、今は書けないなにがしかの感想が自然と手元に落ちてくるようになるかもしれない。そのようにして、人生の最後の季節に手に入れる感慨が、自分の残りの日々に対して前向きであることを今は何よりも願っている。そんな気分だ。

おそらく、前野隆司だとか、茂木健一郎などの脳に関する啓蒙書を読み始めてからではないかと思うのだが、自分がここに存在することの偶然を以前よりも意識するようになった。それと同時に自分自身が生物の類としての生存の装置として生かされているという感情が意識の底から現れてきた。これはおそらく僕の個人的な環境を僕自身が無意識に咀嚼した上で出てきた感想なのだろう。要は子供三人つくって、そいつらがティーンエイジャーになった現在、生存するための機械として見た場合の自分の役目はほぼ終わったという解釈へと思いは横滑りする。生物としての大儀は果たした。とすれば、あとはもう少し好き勝手に生きても誰からも文句を言われる筋合いはないのではないか、と、まあ、最近の僕はどう考えても途轍もなく自分勝手な論理で自分自身を鼓舞しようとしている。

音楽ブログ『みみのまばたき』で紹介されているオランダの作曲家、アンドリーセンの『メロディ』。隣家のお母さんと子供の音楽のレッスンを作品に昇華したという説明に、聴いたこともない曲が好奇心という以上の心の動きを伴って興味を掻きたてる。

■小さなユニゾンの諸形態:ルイス・アンドリーセンの『メロディー、開放弦のための交響曲』(『みみのまばたき』2007年12月18日)

地球上のあらゆる場所で営まれている人間の行いの、すべてこの瞬間に消えて亡くなるはずの行為が、作品として永遠の命を与えられる。芸術の人間くささ、いとおしさにあらためて思いをはせる。アンドリーセンの曲も数百年の後に残っている可能性はしかしかなり小さい。永遠という想念はまるで天上の星のように、くっきりとしていながら常にはるかに遠い存在だ。

最後にとても私的な話題を書き記すことになるが、以前の職場でお世話になった東海大学経済学部教授の山岸忠雄さんが先週お亡くなりになったと連絡をもらう。Webや新聞でも確認した。62歳とはあまりにお若い。経済学がご専門で畑の違う山岸先生とは仕事を一緒にすることはなかったが、オフィスではいつも前向きで明るく振る舞ってくれ、僕ら若手にとっては常に素晴らしい先輩だった。その笑顔も、お声も、そうしようと思えばたちどころに思い浮かべることができる。人は人の中で生きる。これは間違うことなき真実だ。