旅行者の目は当てになるか

明日から短いけれど、私の個人史にとっては貴重な体験となる初めての北海道旅行に行ってきます。今回の旅行では三上さんというこれ以上を望めない伴侶を得て、たぶんそのおかげで通りすがりの者では普通は見えないものを見ることができるはずだとわくわくしています。


楽しみという意味では写真を撮るのが楽しみ。一緒に回っていただくのが三上さんなので、へんな遠慮はいらないはずですし、東京や横浜にはない被写体に何かを感じたいと思っています。ただ、自分の腕を棚に上げて先回りをするのも何ですが、旅行者として写真を撮る限界は大きいだろうなとも思っています。たぶん初めての土地では自分自身に納得する結果は残せないと、その点はある程度最初から諦めているのです。


昭和の写真家と言えば、言わずと知れた土門拳木村伊兵衛ということになるんでしょうが、私は木村のスナップは素敵だと思います。秋田で撮影した塀をバックに馬が通りすぎる瞬間を撮った有名な作品がありますが、ああいうものにはただただほれぼれとしてしまい、何とも言えない共感を感じます。木村は秋田に何度も何度も通ったんですね。木村の撮影は居合い抜きのような一瞬のスナップに人々の賞賛が集まりますが、それを可能にしたのは木村の中にあるイメージの集積だったと思うのです。例えば、秋田なら秋田に通い詰めて、その結果として彼の脳髄にたまるイメージ。それを規範にして、ある時はそのイメージと対決するようにシャッターを切る。居合の名手はそのようにして仕事が出来たのだと思います。


それに比べると、これも有名な一連のパリの写真は、素人が偉そうなこと言いますが、ほどほどにしか面白くない。同じ旅の先でも、秋田とは違い、パリの写真はどこか表面的にとりつくろった感が強い作品、どこかで誰かが撮ったような写真が目立ちます。まだ、一般人にとって渡欧がかなわなかった時代にパリを見て、その感動を印画紙に焼き付けようとした気概は並々ならぬものがあったはずですが、やはり、どこか観光写真の延長のような部分があるのは否めない。たぶん、これは「木村伊兵衛のような名人ですら」ということであって、誰も初めての土地で撮る写真は観光写真にならざるを得ない部分があるのだと思います。全体から部分を切り取るのが写真というアートの本質ですが、旅行者の無意識は、一生懸命にその土地の全体を捉えようとする。土地を全体として知ろうとする。その齟齬が写真を撮るときには決定的なマイナスとなって、初めての土地では視点が絞れない、曖昧な観光写真になってしまうのだろうと思います。


という風にプレッシャーを自分自身にかけておいて、さて、どんな写真が撮れるか、明日からの三日間が楽しみです。