ブログの中の私

フルトヴェングラーだの、ブルーノ・タウトだの、浮き世とまるで縁のないことにこだわってここに書き付けてはいるが、私の実際の日常はタウトを考えることで成立しているわけではない。しかしブログに現れる自分は自分とは思えないような浮世離れな仕方で生きている風情があり、その意味では、本名をさらして書いてはいてもブログに表れる私は作り物の私である。

そして私は嘘つきである。だから、控えめに見ても、このブログに書いていることの何パーセントかは嘘に違いない。さらに言えば、(今現在、少々舵を切り直しているところだけれど)これまで多くのエントリーを「ブログの上でエッセイを書く実験」として綴ってきた。エッセイは、日記とは異なり、日常を素材にした創作の世界である。事実を書き連ねることそれ自体に意味はない。私が書いてきた「僕」はブログのこちら側にいる私ではないということだ。

先日東京大学で行われたワークショップ『MEMORY+  テクノロジーによる記憶の拡張は可能か?』で、過去の自分を忘れない実験を続けている美崎薫さんが、「自分がブログにいまひとつ興味が持てない大きな理由は、整理され、美化された自分しか表出されないのが不満だから」という趣旨のコメントをしていた。なるほどブログについてはその通りだなと思ったし、美崎さんの潔癖な発言は彼の人となりをよく表しているなとも思った。しかし、私は嘘を書くことが面白いという困った性質の人間なのだ。

しかし。それにしても。
現実の「私」は昨朝も会社で若い子を捉まえて「おまえ、こんなやり方じゃ駄目なんだよ」と、くどくどとお説教。二言だけ釘を刺すはずが、主題は勝手に変奏を始め、そうこうするうちに相手もそれなりにこちらの痛いところをつく反論を始めると、我らが即興演奏は収拾がつかず。そんな自分を眺めながら「これも作り話なんだよ、ほんとうは」と言いたくなる。美崎さんの言うとおり。ブログの中の自分は美しい。