トリプル一杯への苦情

コーヒーやビールの味はけっこう慣れるものだし、慣れるどころか、そちらの方がおいしいと思うところまで、いとも簡単に人の感覚は環境について行くものだと海外生活を通じて思い知った。変わっていないつもりで、いつの間にか変わっている。自分を自律的に御せる範疇はふだん思っているよりも狭いらしく、同時に生物としての人間の器には懐の深さがある。


だが外国生活で慣れないこと、慣れるまでに時間がかかることもなくはない。例えばアメリカ人の強さ。それは発揮される場面によっては「ジコチュー」そのものにしか見えない。日本人にも同じような奴はいるので、現象としては程度の問題に見えるが、そこには世界観の相違が存在しているわけで、彼らの自己の強さを支えるサムシングに対する違和感は4年と少々いたぐらいでは中和できるものではなかった。アメリカ人が世界のあちこちで嫌われる理由はあると思う。


一つだけ、僕が今でも覚えている場面を例にだそう。屈強そうな30歳にまだ届かない若いビジネスマンが、ニューヨークのラガーディア空港でスターバックスの店員に苦情を言っている。その言い方が半端ではないのだ。苦情の中身はたわいのない話で、スタバにはエスプレッソのメニューにシングル、ダブルという二種類がある。ところが、耳に入ってくる男の話を聞けば、彼は「トリプル」を注文したらしい。応対に出たヒスパニックの女性店員は、それに対して「うちはシングルとダブルしかありません」と答えたらしい。それがこの大男の若者を爆発させた。「俺はいつもオフィスのそばのスターバックスでトリプルを頼んでいるのだ。なぜ、トリプルができないのだ!」と、それはそれはすごい剣幕である。女性店員はおろおろしてしまい、途中からは「すみません。すみません」と言い始めてパニックに陥ってしまっているのだが、そこに罵詈雑言に近い高圧的な苦言が続く。「ダブルとシングルを頼めば、それがトリプルなんだ! そんなのが分からないのか!」と、その調子はまあ聞くに堪えない。男は白人で、店員はヒスパニック。英語もそんなに上手ではないし、そんなスタバ従業員の知的レベルがそう高いとは考えられない。


いじめるには好都合な対象だと思う。感情的かつ論理的にいじめるマジョリティとそれに耐えるマイノリティという絵柄を見たのはもちろんこれだけではない。単に分かりやすい例の一つというだけだ。こちとらもマイノリティなのだから、こういうのは見ていて気持ちの良いものではない。平均的な日本人はどうしたって、そこまで高圧的になれないと僕は思った。私は正しくて、あなたが間違っていると思ったときにときに、「僕の見方に立てば」などと考えてしまい、そうこうしているうちに腰砕けになりそうになる。優柔不断で、腰砕けで、とそれは間違いなく人間として弱い。サバイバルできない質だ。


このスタバで出会ったいじめの例は、もしかしたら例としてはよくなかったかもしれない。純粋に人種差別の問題として理解されてしまう可能性が大いにあるからだ。ただ僕は、人種間の優劣が存在するという規範があるが故にいじめが発生するという部分を否定する確信はまるでないが、しかし同時に、人種差別の核に「俺のことを理解できないこいつらは駄目だ」という論理の筋道が横たわっているように感じていて、これが彼らの強さであり、嫌らしさだと思うのである。


もう一つ、適切な例ではなかったかもしれないと思うのは、日本人もよく他人をいじめるということだ。これについては何度か感想をこのブログで書いているので、ここでは繰り返さない。