地方出身者のコンプレックス

福岡空港から都心に向かう地下鉄に乗り、椅子に座って考え事をしていたら、ある瞬間から横に座っている人の声が聞こえてきて、物思いから切り離された。

「その、地方っていうの、どういう意味?」

声の主は若い、二十代の男の子で、相手はその女友達。耳に入ってくる内容を聞いていたら、どうやら女性は彼氏に連れられて生まれて初めて博多に来たらしい。初めてご両親に紹介、なんて雰囲気かなと思った。空港のすぐ先に「東比恵」(ひがしひえ)という駅があるのだが、その後の会話をたどってみると、彼女がこれを「恵比寿」(えびす)と読み間違えて、地方で恵比寿に出会うとは思わなかったという類のことを口走ったらしい。それを聞いた男性がかちんと来て先の一言になったようだ。


彼は「地方とはいったいどういう意味であるか」と、ちょっと二人の関係を知らない周囲の人間としては、そこまで執拗に迫ることかと言いたくなるくらい二度も、三度も、彼女にくってかかっていた。女性の方は、驚いた様子で一生懸命に彼に言い訳をしようとしているのが聞いていてとても気の毒な感じがした。同時にそれが男の子の子供っぽさを輪郭づけているといったやりとりだった。


しかし、僕も博多(福岡)生まれの者として男性のむきになる理由はよく分かる。あれは何故なのか知らないが、博多の人間はどうも東京コンプレックスが強いらしく、何かと東京に比べて博多のことで背伸びをしたがる傾向がある。それは自分の親や親戚だけのことかと思っていたが、クラシック音楽友達のYさんが福岡の役所と仕事をしたときに「東京にないものを提案して欲しい」と言われたと話してくれて、やっぱりねえと思い、一昨日の男性を見てやっぱりねえと思う。


かくいう僕も三十代の半ばくらいまで同じような心性に支配されていたのではないかと思う。いったい、大阪や名古屋やなどの大都市圏の人たちが東京にどのようなイメージを抱いているのか、仙台や札幌など他の地方中核都市がどうなのか、ちょっと気になる。我が親戚に「東京なんて」みたいなスタンスの連中がたくさんいる僕は、小学生の時分に親の仕事の都合で横浜に出てきて以来、長い間、前線で戦うゲリラの心意気だった。


三十半ばで数年の外国暮らし、それもアメリカはニューヨークに住まったことで、東京と福岡の関係は、ニューヨークと東京の関係によって僕のなかで相対化されたように感じられる。ニューヨークに比べると東洋の東京は田舎だなあという思いが非常に強くしたのだが、それが1年、2年、3年と経つうちに、いやあ、田舎もそれなりに田舎の良さがあるなあと感じるようになった。同じことが博多と東京の関係にもあるなと率直に感じられるようになったのが40歳近くになってからだから、自分の子供っぽさにあらためて呆れるのだけれど、ニューヨークと東京の関係を自分なりに咀嚼するなかで、つまりそれは進んでいるであるとか、遅れているであるとかいった尺度ではない何かの存在にやっとこさ気がついたということなのだろうと思う。やれやれ。