日本百名山

高校時代山岳部で、20代までは暇を見つけては山に出かけていたのですが、子供が出来てからはめっきり。最近は年に1,2度近くの丹沢山塊に日帰りで出かけるだけの元“山屋”ですが、ときどき無性に“ああ、山に登りたい”と突発的な欲望が頭をもたげることがあります。体力がなくなって実際にはとても登れないのですが、気持ちは二十代のままなのが寂しいというか、質が悪い。

去年ある人からこんな話を聞きました。その人は三十代から山登りを始めて四十代の今もガンガンに登ってらっしゃるのだそうですが、山の仲間に年輩の方がいて、何でも「日本百名山」完登が近づいている。登ったら仲間を集めて大パーティなんだそうです。

その話を聞いて、いまや「日本百名山」はそんなことになっているのかと驚きました。「日本百名山」というのは文筆家の深田久弥が1960年前後に書き記した著作で、登山家として知られていた深田が自分が登った全国の山の中から百山を選んでエッセイに仕立てたものです。

山好きには昔から知られた古典的名著と言われてきましたが、何が契機かここ十年、二十年「日本百名山」を下敷きにした出版物が増え、「日本百名山」ブームが登山好きの間で起こっているようです。Wikipediaを見たら、皇太子が日本百名山を全部登りたいと言ったとか、言わないとかがブームの要因にもなったことなどを含めて詳しい記述がありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%99%BE%E5%90%8D%E5%B1%B1


このあたりを頭に入れていただいて大パーティの話に戻るのですが、僕はこの話を聞いてあまりに自分のイメージしていた「山登り」のイメージとかけ離れているので、驚くというか、正直言うと呆れちゃいました。趣味なんだから人それぞれのスタイルがあってしかるべきで、誰がどこでパーティしようが関係ないのはそのとおりなんですが、「日本百名山」と大パーティ、その背景にある「百名山ブーム」はなんか違う。要は山登りの時ぐらい百だの二百だのと言わずに、数との競争みたいなことを忘れて好きなところに好きなように行くという心構えと方針でいけばいいのにと思ってしまいます。

読書だってそうで、「百冊読破」だのを掲げて遊びましょうという人たちもいますけど、何で冊数にこだわるのかさっぱり分からない。読書によって自分の知見をいっそう広げよう、そのために読書の量を増やそうというのは理にかなってますけど、読みやすい小説や新書本を読んでおればそれなりに冊数なんて増えます。でも、宮部みゆきを読んで冊数増やすよりも、ヴィトゲンシュタイン一冊を年間かけて読破した方が価値があるかも知れない。『カラマーゾフの兄弟』を一ヶ月かけて久しぶりに読み直した方が価値が高いかも知れない。

同じことが山登りにもあり、僕は自分が好きな山を何度も繰り返して登るのが楽しいという考え。他人が選んだ山を百もわっせわっせと忙しく登るのが面白いのか。そんな商業主義的なにおいが背後にする山登りをけしかける資本屋もなんだかなーと思ってしまいます。山に登るときぐらい企業や他人の存在を忘れたい。

今日の写真は昨日休日出勤の合間に訪れた上野の『ダリ展』。入ったのはいいが画の前に三重、四重の人垣で鑑賞する気分は失せました。代理店から来たとおぼしき係員のお兄さん、お姉さんが交通整理をやっているのもなんだか絵を見るムードじゃなく、ものの20分で出て来ちゃいました。

ところで『三上のブログ』で美崎薫さんが「ほかのひとの使っているSmartCalendarの図を見るのは、じつは至福の瞬間です。もっとみんな載せて〜(魂の叫び)」とお書きになっていました。おやすいご用です。