技術とオリジナリティ

梅田望夫さんの『ウェブ進化論』は多様な読み方、啓発のされ方を誘う本だが、最初に読んだときに単独のトピックとしてもっとも印象に残ったのは、グーグルの社内ではアイデアは二束三文で、それ自体は価値がないという共通認識があるという記述だった。グーグルではアイデアは社内の掲示板で共有されており、誰もが自由にそれらにアクセスできる。要はアイデアが最終的に求められているのではなく、そのアイデアを如何に技術的に手当てし、実際のサービスとして実現するのかが問われているという話。『ウェブ進化論』の感想を述べるブログをいくつか読んだが、僕と同様、このトピックに感銘を受けた方は少なくないようで、この話をもっぱら取り出してコメントしているブログにいくつも出会った。


僕自身にとって、この話が頭を金槌でがつんと殴られるような印象として心に刻まれたのは、僕自身、職業生活を送る中で、「アイデアで勝負が出来るかもしれない」と思って実質的に失敗した経験を辿ってきたからだ。そもそも、そう言葉にはっきりできたのが、梅田さんのグーグルに関する記述を読んだからであることは、しっかりと白状しなければならない。そうか、アイデアは、そもそもそれ自体のみでは二束三文なのだ、と僕は思った。物事の本質が純粋に立ち現れてくる場所が世の中にはあって、その場所はそこで問題とされるトピックが何であるかによって千変万化に変化する。おそらく技術の商用化という視点を突き詰めようとした場合には、グーグルのような場所が、そうした物事の本質を露わす特別な磁場を備えた聖なる場所なのだろう。


それはさておき。グーグルによって露わにされ、梅田さんによって僕に伝えられたそのメッセージは、おそらく技術の商用化を考えるあらゆるシーンで本質的に重要なのだと僕は初めて気づかされ、実に腑に落ちた気分になった。もしかしたら、もっと抽象化して、あらゆる成功にとってアイデアだけではナッシングと言っちゃってもいいかもしれない。そんな当たり前のことを何で今さら口にするのと思った方には、おそらくご自身の人生を間違えない資質が備わっている。そんな「当たり前のこと」に気が付かない僕には、人生を間違える危険性が最初から備わっていた。それだけのことと言えば、そうなのだ。


昨日、宮城美術館の佐藤忠良記念館に並ぶ巨匠の彫刻を目にしながら似たようなことを考えさせられた。具象の世界で表現される対象は、ある意味誰の目にも等しく見えるモノである(ように見える)。とくに、色もなく、素材も限定されたブロンズという世界で勝負する佐藤忠良さんの世界では、作家の前でポーズするモデルを如何に素材を用いて写し取るか、その技術力こそが試されている(ように見える)。佐藤忠良さんの、まるで生きて呼吸しているように感じられる立像や、生きている人間から切り取ってきたかのような頭部を見ていると、その技術力こそが芸術作品の存在を保証しているように感じられてしまう。しかし、では、仮に複数の人間に佐藤さんと同等の技術力が備わっていたと仮定した時、複数の佐藤忠良が出現するだろうか。たぶん、そういうことは起こりえないだろう。佐藤がロダンを師と仰ぎ、ある意味でロダンエピゴーネンである事実は、イメージなくして芸術が存在しないことをあからさまに示している。おそらく佐藤さんの中にはロダンの彫刻を自らの両手で再現したいという明確なイメージがあった。そこから、彼の代表作である「帽子」シリーズに辿り着くまでの長い時間の中で、佐藤忠良の技術と創造力はお互いを刺激しながら成長していった。そんな風に理解するしかない。


同じことは写真を撮る行為にも言える。僕ら素人が撮るときですら、この被写体をこんな風に写し取りたい、こんな写真に仕上げたいというイメージは直感的に浮かび上がるものだ。しかし、これがほとんど実現しない。できあがった写真は、こう写ってほしいと考えたイメージを実に簡単に裏切ってしまう。本当に難しい。そのとき、僕は自分の記憶に残る美しい写真のイメージを模倣しようとしているのだと思う。理想的な露出、そこで必要な光の処理といった技術的な知識さえあれば、僕の写真は少なくとも僕自身がイメージする、撮られるべき写真に近づいていくだろう。その意味で技術の習得は表現する者にとって、軽視しようがない欠くべからざる要素だ。しかし、もしそこに僕自身のオリジナルのイメージがなかったとしたら、理想的な構図、理想的な光の処理を備えた無感動の世界が立ち現れるはずだ。


橋村奉臣さんの“アクション・スティル・ライフ”にも同じことが感じられる。僕は「HASHI[橋村奉臣]展」の会場で見たある写真について、いったいどうやったらそんな風に撮れるのか不思議に思って写真家本人に尋ねてみた。答えを聞いて、プロはそんな技術を駆使いるのかと度肝を抜かれた。我々が目にする数々の作品の背後には数十年のキャリアによって培われた、素人には想像できないような技術の集積が存在しているのだ。HASHIさんの、一見すると実に分かりやすくストレートにも見えるイメージが、そうした技術的な蓄積があって初めて認識の領域に上るような複雑で時間を要するプロセスを経て形成されているのを知ると、軽々しく作品を批評するような企てはおそろしくてできなくなる。


新しいことを実現する技術上の洗練とその場におけるオリジナリティの重要さ。そして、それによって初めて霧の中から立ち現れる作者のイメージの鮮度(オリジナリティ)。創造とはそうした切っても切れない二つの側面が高め合う螺旋運動なのだろう。芸術的営為はだから難しい。そして人生もまた。