やり直せない時間

mmpoloさんの『椎名其二』に誘われて野見山暁治著『四百字のデッサン』(河出文庫)を読む。野見山暁治さんの文章に接するのは初めて。抑制の利いた記憶にとどまる文章である。mmpoloさんが目標にしているというのも分かるような気がした。この本は1978年のエッセイスト・クラブ章も受賞しているとのことだが、絵描きが仕事、といってはとんでもない失礼で、一流の画家である野見山さんはどこでこんな見事な文章を書く修行をされたのか。とりわけ、mmpoloさんが取り上げている椎名其二のポートレイトが素晴らしい。


『四百字のデッサン』の野見山さん、そして『HASHI 十万分の一秒の永遠』の橋村奉臣さんと、立て続けにアーティストの青春時代の思い出を読んだ。こういう人たちの凡人には真似できない前向きな苦労話を読むと、「オレは何をやってきたんだろう」と自分が小さくみえ、卒然と立ち尽くすような気分になる。


そんな風に視線が過去に向いていたことが作用したのか。地下鉄駅の階段でお母さんに向かってだだをこね、大声で泣きながら何事かを訴える小さな男の子の姿に出会った時に、どうしたことか、途方もなく懐かしく温かい気持ちに一瞬のうちにとらわれてしまった。


すぐ癇癪を起こす、扱いにくい幼児だった長男はすでに大学一年生。それなりに、それなりの苦労と僥倖を通り過ぎての今日であったのだ。何となく、またHASHIさんの写真を見て帰ろうと思い立ち、恵比寿の東京都美術館に足を向けた。