純粋な単純さ

一昨日に続いてHASHIこと写真家・橋村奉臣さんについて話をしたい。実際に彼の写真を見たことがない方に向かって、どうしてそんなに一人の写真家にこだわるのかを説明するのは簡単そうで難しい。逆に『HASHI[橋村奉臣]展』に足を運んだ方なら、こだわりの理由は容易に理解できるのではないかと思う。残念ながら、会場で販売されている立派な写真集でさえ、HASHI展で展示されている巨大な印画紙に表現された8×10版(エイト・バイ・テン)の静物の迫力と精緻さを伝えることはできてはいない。今回の展覧会に出展された作品群には、鮮度が感じられるのだ。そこでしっかりと見届けないと決して手に入らない、かけがえのない、まるで生もののような感触。訊けばHASHIさんは一つ一つの作品への照明のあて方を含む細部に至るまで、自身の主張を押し通し展示方法を決めたという。ご興味がある方はぜひ恵比寿に足を運んでいただければと思う。


驚くべきことに、HASHIさんは学校でちゃんとした写真教育を受けたことがないのだという。日本を飛び出し、ハワイを経由してロサンジェルスで写真の学校に入った時も、ここは自分のcapabilityに合わない、ここにいても伸びないと考えて、すぐ飛び出てしまったのだそうな。


自信に裏打ちされた楽天性というべきなのだろう。「僕は幸運なことに、最終的には常にうまくいくんです」「僕は、今日、ほんとうにあなたと会えてよかった。僕っていつもそうで、こうやって必要なときに必要な人と出会うことができる。そういう出会いが僕にとって大きな財産になっている。すごく運がいいと思います」 HASHIさんはそう言い放つ。


しゃべっているのは米国の広告写真の世界でこれ以上ない成功を収めた人物である。こんな風にHASHIさんの言葉を書き記すと、読む人に尊大な人物のイメージを与えかねない。ところが実際にこうした言葉を吐くときのHASHIさんは、明るく大らかで、思わず「へぇ、そうなんだぁ」と頷かずにはおれないpureさの固まりである。もし、目の前の黒のTシャツ、年齢不詳的な雰囲気の男性の素性をそれと知らされていなければ、この人がマンハッタンに地上4階、地下1階の仕事場兼住居を構え、くつろいでいるとそこが大都会のまっただ中とは思えず初めてアメリカに渡ったハワイを思い出すという庭まで持っている、文字通りアメリカン・ドリームの体現者であるとは正直信じられない。目線が心の底から自然でフラットなのだ。


そのことを言うと、「僕は人を分け隔てすることは絶対にしません。いつも誰に対してもfairであることを心がけている。立場によって態度が変わる人を何人も見ているけれど、そういう人は信用しない。僕は地位の高い人にも会ってもいるけれど、だからといってこびたりすることは絶対にない」 強い口調でそうおっしゃる。 人間的なpureさ。初対面のHASHIさんが会っばかりなのに僕を引きつけるのは、僕に向かって「あなた、中山隆さん?!」と満面の笑顔を見せ、写真を勉強している学生を励まし、サインを求める人一人一人と同じ高さから語りかけるHASHIさんのpureな心のありようの故である。


「HASHIさんのお話を聞いていると、写真を志された昔のままの心を持ち続けているんじゃないか、そんなふうに感じられます」といったら、彼は手元から古い綴りのノートを取り出して見せてくれた。十代に書いていた創作ノートだという。彼の創作に対する気持ちはそのころから変わらないということなのだ。茂木健一郎さんが『クオリア日記』に書いている「名付け得ぬものがもやもやと自己を駆り立てる「青年期」が永遠に続くということ」をまさにHASHIさんは生きている。


もう一つ、トークショーで聞けなかったことを訊いた。何故、高速度撮影、HASHIさんの用語でいう“アクション・スティル・ライフ”を思いつくに至ったんですか?と。写真家は、こう答えてくれた。芸術手段としての写真特性は瞬間を切り取ることにある。アクション・スティル・ライフはその写真の特性を極限まで追求するという意味で、写真しかできない、もっともpureな写真表現だと考えたのだと。


この日、サインをしてもらった立松和平さんとの対談の記録『十万分の一秒の永遠』(アートン)に、こんなやりとりがあるのを昨日僕は読んだ。

立松: HASHIさんの話は、明快だけど、単純だよね(笑)。
HASHI: そう、単純、僕もそう思います(笑)。すごい単純なんですよ。いやなことは、もうどうしたっていやなんですね。
立松: 単純明快な強さがありますよね。
(『十万分の一秒の永遠』p109)


この日、トークショーを成功させたHASHIさんは、多くの日本のファンに囲まれ、心から喜びくつろいでいるように見えた。しかし、彼の口から日本人のものではない“pure”という言葉が発せられるたびに、その強い破裂音のPを聞くたびに、ニューヨークでの熾烈な競争を勝ち抜いてきた彼がくぐってきた百戦の苛烈さが、瞬間そこに表現されるように僕には感じられた。その十万分の一秒の瞬間に何が隠されているのか、もっとよく見てみたいと僕は思った。


◇橋村さんによると10月8日(日)のNHK教育テレビ新日曜美術館』(午前9時および午後8時開始)で『HASHI[橋村奉臣]展』が紹介されることになったそうです。
(補記)HASHIさんご本人から訂正のご連絡をいただきました。残念ながら放送は10月1日の回に終わってしまったそうです。