オールド・メディアあなどるべからず

はてなRSSリーダーキーワードウォッチ機能を搭載してすごく便利になった。そこで喜んでいくつかのキーワードを登録した。昨日に登録したばかりの「吉本隆明」にはさすがにひっかかってくるサイトが多い。吉本さんへの世間の注目度はやはり高いなあとあらためて感心したのだが、そこで見つけたブログのほとんどが9月19日の朝日新聞記事(「吉本隆明さんと考える現代の『老い』」)に言及しているのに気が付くことにもなった。そして一つの発見をした。僕が読んだブログの著者はどなたも吉本さんの老いの姿を初めて読むようであるらしいということだ。つまり同じ会社が5月に出版したばかりの『老いの越え方』(朝日新聞社)の存在をご存じないようなのだ。このことは、流通システムを含む総体としての新聞と書籍、それにWebといった媒体の特徴と接点を考える上でとても面白いことだなあと思った。

老いの超え方

老いの超え方


老いの越え方』は吉本さんが自らの体験を踏まえて老人の問題を語った一冊で、朝日新聞の記事のネタ本そのものである。すばらしい一冊だと思う。しかし、朝日新聞が記事にすればあっという間に広がるコンテンツを、どうやら多くの人が認知していない。多数の認知を瞬時に獲得するという機能において、ウェブはおろか、書籍に勝る新聞のすごさをあらためて認識させられる事実だ。


そして書店。僕は『老いの越え方』が世の中であまり知られていないという事実に驚いたのだが、それはどうしてかというと、僕がこの本を最初に書店で見たときの印象がその事実とやけにかけ離れていたからなのだ。僕がよく立ち寄る東京駅の八重洲ブックセンターでは、『老いの越え方』を店頭で大々的に宣伝していた。これでもかというほど、店舗の中でもあちこちに分散して平積みにしていたような気がする。つまり、八重洲ブックセンターで本を買う人なら、『老いの越え方』はかなり意識に残っている本であるはずだ。


しかし、これはどの書店にとっても真実かというとそんなことはない。僕が覚えているかぎり、八重洲ブックセンターは僕が徘徊する他の大型書店に比べても吉本さんのこの本に対してことさらに思い入れのある扱いをしていた。横浜の二つの大きな本屋さんではその他大勢の中に埋もれていた。読書好きには自明のことだが、書店はどれも同じように見えて、その陳列は各店舗ごとに大きな個性があり、同じ商品で勝負していながら各店はまったく異なる印象を消費者に与える。そこで同等の規模であっても自分にとって買い物がしやすい書店、そうでない書店が出てくるし、場合によっては複数の書店をはしごをして書店Aで得られなかった情報を書店Bで掴もうと試みたりする。どのような商業的な理由がその背後にあるのかは知るよしもないが、八重洲ブックセンターは『老いの越え方』を突出して宣伝した。


書籍の流通に携わる専門家の方に雑談の中で聞いたのだが、書店の品揃えはコンピュータなどを活用した科学的な分析や実績に基づく統計的な知恵とは無縁の世界だそうな。ということは、こうした書店毎の特色は、基本的にはあくまでフロアを担当する店員さんたちの経験と意見・方針、さらには美学的価値観の表明なのだ。すごいじゃないかと思う。


アマゾン・コムのレコメンド・システムは書店を徘徊する楽しさやわくわく感にひっかき傷さえ付けることができていない。経験を積んだ店員さんが支える書店の有するレコメンド機能の高度さ、書籍という美しい工芸品が醸し出す独自の雰囲気、視覚に訴えて様々な情報の発信が可能な書棚の多様性と一覧性の高さなどの価値をもう一度熟慮してみると、本はなくならないし、書店もなくならないと確信を持って言うことができる。


宅配制度を備えた新聞、書店によって流通する書籍。それぞれにインターネットにはない大きなメリットを備えており、インターネットによる情報発信はそれらの特性から学ぶところはまだまだあると思う。それはつまるところ編集や品揃えに関する意志決定に代表される、人知が関わる泥臭い差異化の手法に大いに関係している。