梅田・平野対談に関する感想メモ

この一ヶ月ほどの間にいくつかの印象深い読み物に出会ったが、あえて自分にとってのベストスリーを挙げるすれば、これらだろうなと思ったのが次の三つだ。

■羽生善治・吉増剛造『盤上の海、詩の宇宙』
■茂木健一郎『生きて死ぬ私』
梅田望夫平野啓一郎『徹底討論:ウェブ進化と人間の変容』(『新潮』6月号、7月号)

最初の二つについては、すでに感想文を書いたので、忘れないうちに最後の一つについて書いておこうと思い立った。『新潮』に2回にわたって掲載された梅田望夫さんと小説家・平野啓一郎さんの対談だ。とは言え、毎日のブログ時間で料理するには難渋する作業だ。あまりに論点がたくさんあり、それぞれにひと言つっこみを入れたくなる刺激的なディスカッションが繰り広げられている。梅田さんのブログによると、2回併せて8時間の長丁場だったそうな。一筆書きで何かを書くには手に余る感が強い。
■「新潮」6月号: 平野啓一郎氏との対談(『My Life Between Silicon Valley and Japan』2006年5月3日

この対談には全体に大きな山が二つあり、第一回目の掲載である6月号では、“ウェブ利用と匿名性”をめぐって、また後半にあたる7月号では、“本の未来”について激烈な議論が戦わされている。今日は、ちょっとこの後半の話に関して思うところをメモしておきたい。

この対論の中で、平野さんは「本はなくなる方向に進むかもしれない」というスタンスを取り、反対に梅田さんは「本はなくならないだろう」という側に付く。作家の平野さんが本がなくなると言い、『ウェブ進化論』の平野さんが本は不滅ですと主張するという常識とは反対の議論の進み行きが読む者を大いに活気づける。

この二人の議論がエキサイティングなのは、どこかに話を収斂させることを目指すのではなく、問題の深い広がりを提示する方向にどんどん進む点だ。平野さんが本の問題を端末の問題に読み替えて語っているのに対し、梅田さんは販売・流通を含めた全体システムの問題として捉えていることが次第にはっきりと分かってくる。二人とも自説において妥協することを拒み、ぎりぎりのところまでねばって相手を説き伏せようと試みる。言葉を重ねに重ねて、議論の全体像、問題の所在が次第に形を表してくるのだが、そこに到達したところで読者はカタルシスを感じることはできず、様々な問いかけを前にして自分なりの立場を鮮明にすることを求められている気分を抱え込む。そこがこの対談の価値となっている。

平野さんは実にタフな対談相手だ。いま、ウェブとインターネットを語らせてこの人の右に出る者はいないと世間が信じる梅田さん、年齢も一回り年長の梅田さんを向こうに回し、平野さんは実に挑戦的な議論をふっかける。この「本の未来」は話の位相が商品開発や事業開発という梅田さんの土俵に乗ってしまったかたちなので、どうしたって梅田さんに地の利があるはずだし、実際、一歩引いて眺めれば、全体の分が梅田さんにあるのは明らかなのだが、平野さんは驚異の粘り腰で容易には土俵を割らず、梅田さんから様々なコメントを引き出す。けっきょく梅田さんと対論を行う相手として適切なのはITのヒトではなく、平野さんのようなITともビジネスとも無縁の立場の論客なのだと感じられる。

それにしても、Webというもっとも最新のメディアに関するこの対談を、よりによって過去の遺物のような文芸雑誌『新潮』が実現させたというのはなんということだろう。梅田さんの発言は、おそらく梅田さんのブログを常にケアしているウェブユーザーにとってもっとも遠いと思われる媒体に掲載された。これによって照射される一つの事実として、梅田さんのブログで紹介されたこの対談へのトラックバックソーシャルブックマークの思いがけない少なさを指摘したい。このエントリーに付けられたはてなブックマークは、これを書いている時点でわずか10。トラックバックも11。梅田さん本人が「たいへん刺激的でした」と語るコンテンツに対して、この反応の少なさは気持ちが悪いほどだ。つまり、はてなブックマークトラックバックを縦横無尽に使う梅田さんのブログの平均的読者は、いったん議論が『新潮』に飛んでしまうと、現実にコンテンツをフォローできないのだ。

これは『新潮』に代表される文芸雑誌の言論空間の偏り・狭さ(当の読者を含めて誰もが知っていること)、そして現在のWebの言論空間の偏り・狭さ(これは「はてな」のような世界ではなかなか意識されないのではないかと思われること)を思いがけず如実に照らし出している。実に面白い、と僕は思うのだが。