メディアの憂鬱

今朝の朝日新聞を開けたらWeb2.0をめぐる西垣通さんと梅田望夫さんの主張を対論風に掲載する記事が掲載されていた。

数日前に梅田さんの話を聞いたばかりなので、どうしたって眼は引きつけられる。出勤前にパンに食らいつきながら、限られた時間をこの記事を読むことに費やす。


実にうさんくさい紙面構成で、大新聞がこの話題を下手に取り上げると最終的にやぶ蛇の感が強くなる好例になっていると僕は第一印象で感じてしまった。知らない人が読んだら、梅田さんという人が流行の話を無節操、楽天的にぶち上げ、それに対して西垣さんがこの分野の先輩知識人として、「実はそんな簡単な話じゃないですよ」と読者を教え諭す作りになっている。少なくともこの話題に明るくない方が読めば、そんな風に読めるように上手に作られている記事だ。別々に行ったインタビューを左右に割り付けて、写真もがちんこ勝負風に配置し、あたかも対談をしてでもいるように作ってあるこの朝日の欄は正直僕は苦手だ。第四の権力のやることはえげつないねえと思ってしまう。


記事中で西垣さんの繰り出すキーワードはズバリ「衆愚」。Web2.0は集合知を喧伝するが、それはポピュリズムに陥る危険性を孕んでいるとおっしゃる。実は梅田さんが先日の演壇の上で、日本のインテリから頻繁にこの言葉を使って攻撃されると話しているのをまさに聞いたばかりなので、あらあらと苦笑せざるを得ない。もっとも本当のところ西垣さんがどんな調子でこうした言葉を吐いたのかは皆目分からない。お二人が実際に向かい合えば、おそらく記事に書かれている先の実りある議論も期待されるのではないかと僕などは想像してしまうが、それではおそらく朝日は面白くないのである。


情報流通の世界で大きな既得権を持っている連中が本物の危機を感じて焦っている様が僕らのような一般大衆にもだんだんとあからさまに見えるようになってきたのではないかしら。政治家が威張らない、役人が威張らない、マスコミが威張らない、会社の上司が上司であることだけで威張らない、そういう世の中が理想の世界だと僕は単純・純粋に信じている。そのための一つの有効な方途として情報媒体の有限性が緩和され、情報流通のボトルネックが解消されることに大きな意味があることはWeb1.0を体験した我々が実感しているところであり、その先に起こっている現在の変化の行き先がどこなのかはさておき、まずはこの変化それ自体にイエスを叫ぶことに意義は大きいはずなのだと思いたい。


一月前にこの日記を本格的に書き始めたのも、自分自身を俎上に上げてWeb2.0を実体験してみよう意図が、半分はある。そして、やってみると、これは面白い。この新しい仕組みは本当に凄いと本気で信じ始めている。


こんなことを書くと、そんなに嫌なら朝日を読むなとこの文章を読んだ皮肉屋さんからは批判を浴びそうな気もする。でも、典型的ノンポリの僕は別に新聞の政治的な色などそれと分かって割り切って読めば朝でも毎でも読でも何でもよいと思っているのである。吉田秀和さんの音楽評論が読めるのを最大のメリットと朝日の読者を決め込んでいた。ところが、吉田さんが奥さんを亡くしたのを契機に断筆状態になり、それとともにますます「別にどこの新聞だっていいんだけど状態」が続いているのだが、しかし、我が家の政治風土にあっては僕が覇権を取れることは新聞の種類を含めてあまりないのであり、ご家族様が朝日の家庭欄がよいと言えば従順な朝日の読者と化すことにするのである。それに、アンチ巨人派としては、それだけで読売をとる理由はなくなっちゃうし。