カポーティ『冷血』の美しさ

関内駅、みなとみらい地区を通って横浜駅まで15Kmほどのウォーキングに出かける。ささやかな運動不足解消つもりだったが、歩くのは考え事をする時間としてもとてもいい。インターネットやテレビで気が散ることもないし、ごろっと横になって昼寝してしまうこともないし。


時折小雨が混じる曇りの一日で、ランドマークタワーもぼんやりと霞む。


人殺しの話など何が面白くて読むのかと自分自身に対して問いかけたくなってしまうが、トルーマン・カポーティ『冷血』新訳版の圧倒的な印象はどうしたことだろう。『冷血』はカンザス州の片田舎で起こった一家四人惨殺事件を題材にしたノンフィクションだ。ニュージャーナリズムの幕開けを告げる傑作として、村上春樹をはじめ専門家が必ず褒めそやす作品だが、僕はずっと以前に滝口直太郎訳で読もうとして、最初の章の途中ではやばやと挫折した記憶だけがある。『ティファニーで朝食を』も滝口訳で読んで、なんてださい日本語だろうと思ったその先入観が『冷血』から僕を遠ざけていたのだと思う。そればかりでなく、殺人を題材としたノンフィクションというだけで、当時はノー・サンキューの心持ちだったのも確かだ。


それが、あろうことか、ここしばらく人が死ぬ話をいくつも読んでいる。ごく最近では5月に読んだジョン・グリシャム『処刑室』が実の祖父を死刑から救おうと奔走する若い弁護士の話。これは作り話だが、米国南部の現実に取材した作品だけに、「作り話でした、チャンチャン!」とはいかない読後感が残った。『処刑室』は明らかに『冷血』の伝統を踏まえて書かれた作品だ。


そう言えば、映画『オズの魔法使い』で主人公のドロシーが夢の中の国マンチキンランドに降り立った際、小脇に抱えた飼い犬のトトに向けて、名台詞「Toto, we are not in Kansas anymore」を呟いたのだった。『冷血』ではカンザスが他でもない悪夢の世界だ。当事者にとっては覚めない悪夢だ。地方の名士として人望も厚く幸せに暮らしていた豪農一家4人が、十代の美しい子供たちを含めて無慈悲で虚無的な殺人の犠牲者になる。カポーティは徹底的な取材で、事件が発生し、殺人を犯した二人の犯人が絞首刑に処せられるまでを追いかける。二人の家族たち、被害者の隣人たち、犯人を追ったFBI、警察関係者、その近親者たちを追いかける。人殺したちは、思いがけずあっけなく捕まって縛り首にされてしまう。それだけの話なのだ。推理小説のようにどんでん返しも追いつ追われつもない。そこに文学の可能性を見たカポーティの感性と勘は常人のそれではない。いったい何なんだと思ってしまう。ありえないことだ。


この作品は殺人の禍々しさ、殺人を惹起する人間社会(あるいはアメリカ社会)の禍々しさと同時に数多くの印象的な風景が、一介の市中の人物たちの印象的な発言がここそこに表現されている。それらがこの作品に信じられない美しさを加えるのだが、それが何故なのか。


『冷血』を読むと自動車でいけどもいけども限りないアメリカの広大な大地を思い出す。その美しさと厳しさの感覚をストレートに思い出す。それを可能にするのは佐々田雅子さんの素晴らしい日本語のおかげである。今、『冷血』をめぐってはっきりと言えるのはそのことだけなのが少し残念だ。

冷血 (新潮文庫)

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