物忘れの楽しみ

今晩はワールドカップ・ドイツ大会の決勝。1982年以来のイタリア優勝で幕は閉じるはずだ。寝不足の一ヶ月がやっと終わる。

昨日の書き込みでふれた小川洋子さんの『博士の愛した数式』は80分しか記憶をできない数学者が主人公という卓抜な設定を下敷きにした心温まるメルヘンだ。最近、認知症について報道されるところが増え、記憶をなくすということがメルヘンとははなはだ遠い方向に人を連れて行くらしいことまでは少し理解したが、残念ながら不幸に対して想像力が届く範囲は限られている。本当の辛さはいかばかりのものか。

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)


それにしても自分自身、記憶力の減退がはなはだしい。子供の頃は記憶力のよさで大人を驚かせていた同じ人間とは思えない。もう、数年前のことだけれど、久しぶりに村上春樹でも読むかと『レキシントンの幽霊』を購入した。読んだ。それから(おそらく)数年後、最近本棚を見て愕然とした。同じ『レキシントンの幽霊』が2冊仲良く並んでいるのだ。

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)


しかし記憶力減退のよきこともある。先月、ジョン・グリシャムでも読みましょうと『ペリカン文書』を図書館で借りてきた。僕は推理小説はほとんど読まず、グリシャムもほとんど読んだことがない。かつて暇つぶしに読んだ『法律事務所』はアメリカの大衆が漠然と理解している“弁護士”の実務に実体を与えながらエンターテイメントに野放図に突き進む。緻密な説明力を備えた前半は見事だと思った(ことまでは覚えている)。そこで、久しぶりのグリシャムは執筆順に『ペリカン文書』を手に取ることにした。これも面白い。ところが、ドラマが佳境に突入した頃、つまりページ数で数えると、ほぼ分厚い書物の真ん中あたりで、思わず顔を上げる事態に突入した。どこかで読んだことのあるような場面がそこに書かれていたのだ。そんな馬鹿な、と僕は思った。なぜ初めて読む小説の場面を自分は知っているのだ。この小説を自分がすでに一度読んでいることを自分自身に納得させるために、僕は困惑の数分に耐えなければならなかったが、しかし結局のところ、この本を読了するまでに僕が思い出したのは、その場面と最後で登場するFBI長官の名前「デントン・ヴォイルズ」だけ。つまり、僕は何の問題もなく、最後までわくわくの読書を楽しめたのだ。

ペリカン文書 (小学館文庫)

ペリカン文書 (小学館文庫)



忘れることはよきことかな。