決定盤って何だ

ブラジル対フランスは、またしてもフランスの勝利に終わった。82年のスペイン大会のブラジルのように前評判で絶対的といわれたチームがまた負けた。イングランドもアルゼンチンも消え、自分が想像していた顔ぶれはイタリアをのぞいてことごとくワールドカップの舞台を去ってしまった。賭ごとはしない方がよい、とまたちょっと思ったり。

「音楽の友」が定期的に「読者が選ぶベスト演奏会」という類の読者投稿記事を掲載していて、これらの企画はこの雑誌の性格からいって常に一定の売り上げを確保するのに貢献しているものと思われる。

演奏会にせよ、録音にせよ、このNo1演奏選びほどクラシック音楽マニアを熱くする共通の話題はないと言って良いのだが、これっていったい何なのだろう?と思いませんか。陸上競技ならば一番を決めるのはたやすい作業だ。ところが、これがフィギュアスケートになると、もう事は複雑さをまし、侃々諤々が始まる。音楽に一番、二番を付けるのが難しいのは、ショパンコンクールチャイコフスキーコンクールを見れば一目瞭然だ。

であれば、何故かの宇野功芳氏のように「これこれの曲はこれがベストだ」などと脳天気な断定が可能になるのだろうか。彼によれば、長くブルックナーの第8交響曲クナッパーツブッシュミュンヘンフィルの演奏とシューリヒトとウィーンフィルの演奏さえあれば他はいらないということになっていた。最近は朝比奈さんやヴァントさんの演奏がこれに加わっている気配だが、しかし、そうなのだ。宇野功芳的世界では、常に演奏には簡単に善し悪しが付けられるのだ。ほんとうにそうだろうか。

演奏技術の高度さの軸を前提に優劣を語ることは、(ここでは何が高度化は置いておくとして)ある意味それほど難しくない。オケで縦の線が合っているとか、音程の乱れがないからメロディラインがすごく綺麗に聞こえるといった類のことを争うならばである。また、金管の馬力があるとか、ないとかいうことをここに加えることも大きな議論にはなりそうにない。

ところが、ここに伝統性と革新性を対局とする軸を入れると話はほんとにややこしくなる。演奏に求められるのはどちらかと二項対立的な議論を仕掛けても意味はないかもしれないが、基本はこのどちらに重きを置くかでその人にとってのよい演奏はひどく変わってくる。しかも、伝統と言う言葉を流派(スクール)という言葉に腑分けしたとたんに、議論はますます複雑になる。我々日本人には「これが正統」という決定的な規範がないから、決定盤の議論は結局好き嫌いの議論に終始しかねない。

逆に言えば、決定盤的議論において重要なのはスクールの存在を意識し、その内実に迫るものというべきだろう。その点で宇野功芳はとても退屈なのだ。