なぜ『テ・デウム』なのだろう?

世を去る間際、ブルックナーはなぜ『テ・デウム』を交響曲第9番の未完の第4楽章の代わりに指名したのだろう?

スダーン指揮東京交響楽団によるミューザ川崎再開記念コンサートで、ブルックナー交響曲第9番と『テ・デウム』が続けて演奏されるのを初めて聴いた。調声も、オーケストレーションも、メロディの性格も違う2つの曲がどのように扱われるのかという興味に即して言えば、スダーンの扱いに特段の芸当があったわけではなかった。つまり、コンサートの当日、ミューザに鳴り響いたのは第3楽章まで完成された交響曲第9番と『テ・デウム』という独立した2つの曲であって、休憩を取らないという演出上の配慮にもかかわらず、響きの統一感が崩れ落ちて虚空に消えていくような、繊細を通り越して痛ましさをあらわにする9番のあとに演奏されたグラマラスな『テ・デウム』は、おそらく誰に感想を聞いてもあくまで別の作品だった。演奏会でこの2曲を順に聴いて、両曲のご縁を第六感で感じると主張する人がいたら、その人は徹底的にユニークな感性の持ち主か、徹底的に音痴か、嘘つきかのどれかかだ。私は霊感というものに無縁な人間なので、感想はどうしても無粋なところに収斂してしまう。そこはお許しくださいませ。

しかし、これは本当に誰もが抱くであろう普通の感覚である。例えば、ブルックナーに関する最新の書籍、アイルランド音楽学者、Dermot Gaultさんが2011年に著した『The New Bruckner』(洋書だが、Kindle電子書籍が買える。約9000円もするけど)の中で、その普通の感覚はこんなふうに表現されている。

『テ・デウム』は調性、譜面、様式のいずれの面においてもまったく別の存在であり、(交響曲第9番の)3つの完成されている楽章で惹起された感情・和声の上での緊張を解きほぐすことはない。交響曲第9番の終楽章として導入するのは、これらの緊張を単純な自己主張で克服できると期待するようなものだ。すなわち、『テ・デウム』は独立した作品として機能するのに、こうした状況の中では安請け合いがプラスではなくマイナスに作用してしまう恐れがある。『テ・デウム』を終楽章の代わりにしたいというブルックナーの思いはしっかりと記録に残されている。しかし、それは出来ない相談以外のなにものでもなかったのだ。

普通はどの演奏家もこの2曲をセットで演奏はしようとは考えないということだ。だから、初めてそのセット演奏を聴いたこの日、2つの素朴な疑問が頭の上に浮かんだ。

最初に浮かんだのは、「スダーンは、なぜこのセット演奏をするんだろう?」という疑問である。記録を紐解くと、この人は数年前にもこの2曲を東響の演奏会で取り上げている。スダーンさんにとって2曲はセットなのだ。理由はご本人に聞くしかないけれど、結局この人は、ブルックナーが『テ・デウム』を完成できなかった第4楽章の代わりに演奏してほしいと語ったという故事を尊重しているのである。かつてブルックナー自身が2曲を同時に演奏してほしいと望んだ。その事実が重要だという故事来歴に素直に真面目に向き合う姿勢。と書くとなんだか素直でよい話のように聞こえるが、これは大事な音楽そのものを差し置いて本質とは関係のない別の理念が物事の判断に影響を及ぼしているとも取れ、その意味ではへんてこな教条主義ではないかと思えてしまう。

あるいは、そもそもスダーンの中では『テ・デウム』が、聴衆が直前に聴いたばかりの9番の感興を薄める音楽というふうにはまるで感じられていないのかもしれない。そうだとすると、その点はさらに興味深い。彼の9番が繊細さよりも力強さ、分裂よりも凝集を表現しているように感じられることと無関係ではないと想像できるからだ。できることならマエストロに一度その辺りの話をしゃべらせてみたい気がする。

で、想像の行き先は素朴な疑問第2号につながる。戻っていくというべきか。「ブルックナーはなぜ『テ・デウム』を身代わり第4楽章に指名したのだろう?」というそもそもの問だ。

ブルックナーが死の間際に『テ・デウム』を代わりにと言ったという話は、CDのライナー・ノートなど、未完に終わった9番を紹介する文章には必ずと行ってよいほど紹介されている。だが、どういう状況でどんなふうにその希望が語られたのかという具体的な説明はほとんど読んだことがない。日本語のウィキペディアで『テ・デウム』を引くと、「1894年、ウィーン大学の講義においてブルックナーは、交響曲第9番(当時第3楽章までほぼ完成)が未完成に終わった場合には自作の『テ・デウム』を演奏するように示唆したと伝えられる。」と書かれている。ブルックナーが死んだのは1896年だから、彼が体調を壊しながらも、まだ寝込んでしまう前の話だ。この逸話の出自は不明で、私は他で聞いたことがない。一方、英語版のウィキペディアでは、「In the 1890s Bruckner was aware that he might not live to finish his Symphony No. 9, and some commentators have suggested that the Te Deum could be used as a finale.」と日本語版とは反対に、やけに慎重な言い回しでこの件を取り上げている。日本語のブログなどには「遺言」という書き方をしている方もいらっしゃるが、正式な遺言だという資料は見たことがないので、ちょっと言い過ぎだろう。

先の『The New Bruckner』には、ブルックナーの弟子であるCarl HrubyとJean Louis Nicodeが最後に本人に会った際にこの『テ・デウム』代替案を聴いたと紹介されている。年若いお弟子さんだったHrubyがブルックナーの死後、20世紀に入てから書いた『ブルックナーの思い出』というテキストがドイツ語であるらしく、これを読めばその辺りの情報にたどり着けることまでは分かった。果たして簡単に手に入るものなのか、読んで面白いものなのかは現時点ではまるで判然としないが、要チェック情報ではある。

ブルックナーと聞くと、すぐに敬虔なるカトリック教徒というイメージが立ち上がる。以前このブログで紹介したクラウディオ・マグリスの『ドナウ ある川の伝記』には、小説家のシュティフターを取り上げた一節があって、そこでは素朴な小説を残したシュティフターの人生がオーストリアの土地と絡めて印象的に描写されているのだが、その数ページのテキストの最後の辺りにひょっこりとブルックナーが顔をだしている。たったの2行だが、そんな事実があったのかという感慨とともに音楽好きの記憶にはとどまる記述だ。

シュティフターが死んだとき、一人の男が葬儀の合唱の指揮をとった。ある意味で同じく「物語のない」人生の人だった。アントン・ブルックナーであって、リンツ大聖堂づきのオルガン奏者をつとめた近代の偉大な作曲家である。きちんと仕事をし、宗教的な儀式を全うすることに比べると、芸術家であることをそれほど重視したわけではなかった。

人間として驚くほどに素朴で、一途にキリスト教の神に使えた人生。マグリスが一筆書きで描くブルックナーは、我々聴衆が普段抱いているブルックナー像の典型的な表現になっている。そして、「終楽章の代わりに『テ・デウム』を演奏してほしい」という死の間際の彼の希望も、こうした文脈上で理解されるのが普通ではないかと思う。「主に召されたときには、この世における献身の証として『テ・デウム』を献上したい」と述べたという有名な話は『The New Bruckner』でも紹介されているところだ。

しかし、『テ・デウム』は神様の栄光を寿ぐための曲であったと同時に、ブルックナー自身にとっての栄光の曲でもあったという点は見逃せない。というよりも、むしろその点にこそ『テ・デウム』に対するブルックナーの執着があったと解することによって、人間ブルックナーに対する柔らかな好感を我々は手にすることが出来るのではないか。この文章の行き先はそこに向けられている。

これは先日の東京交響楽団のコンサートのパンフレットでも触れられていたが、『テ・デウム』はブルックナーが生前に成功を収めた曲としては、その代表的存在だったらしい。もっとも大きな成功を収めたのは交響曲第7番で、『The New Bruckner』によれば、この曲はブルックナーの生前に32回演奏されている。『テ・デウム』も7番に次いで演奏回数は多く、30回も演奏されているという。ちなみに両曲は同じ時期の作品で、後に書かれた『テ・デウム』の終曲には7番のメロディが登場する。同時代の人々の無理解に苦しみ、旧作に対して改定に改定を重ねる人生を送ったブルックナーにとって、7番と『テ・デウム』は世俗的勝利の象徴だったのだ。

神への賛美であるとともにブルックナー自身の成功の記憶につながる『テ・デウム』を9番と結びつけて演奏したいという彼のこだわりは、冷めた他人の視線には人の自己執着の愚かしさのあらわれ以外のなにものでもないと思えるのだけれど、同時に彼がこの曲に執着した死の間際の記録は、その人間らしい愚かさの発露によって、後世の人間に楽譜にも伝記にも表現し得ない生身の人間の息遣いを伝えているとも言えるのではないか。

この話は、生み出された瞬間に生みの親である作者とは独立したモノとして生き始める芸術作品の不思議を示してもいる。敷衍してしまうと高度な芸術作品にかぎらず、そもそもある人の社会的な達成に対する他人の受容と本人の満足の間には、ときに微妙な齟齬が生まれるのが常である。そこに喜びと悲しみがこもごもするのが、つまり人の世であると言ってしまってかまわないのかもしれない。


The New Bruckner

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ドナウ ある川の伝記

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