明日はマーラーの『復活』を聴きに行く

明日はid:tsuyokさんの出演するアマオケ、横浜フィルハーモニー管弦楽団の演奏でマーラー交響曲第2番『復活』を聴く。場所は横浜のみなとみらいホールで14時の開演。


■横浜フィルハーモニー管弦楽団


マチュアが『復活』を演奏するとどうなるのか、というのは品のない関心の持ち方だが、正直なところ、そうした下品な興味がある。演奏する人たちにとって、それは「アマチュア」の演奏ではなく、「横浜フィルハーモニー」の演奏であるわけだから、こういう言い方には面白くないものはあるだろう。だが、イチロージーターの守備やを見ていても野球の難しさはまるで分からないのと同じように、ウィーン・フィルベルリン・フィルの演奏を録音で聴いていても、継ぎ目も見えず、刷毛の塗りあとも残さない、磨き抜かれた一流の演奏は、曲の成り立ちに関するある種の秘密を漏らしてはくれないのである。それらを知る鍵は、むしろアマチュアの団体の演奏にあると言っていい。それに、アマチュアの熱意は、ときにプロの技術を凌ぐ感動を与えてくれる。これも球の例えで言えば、プロの試合より高校野球の方が面白いと語る野球好きの存在が少なくないのと一緒で、それこそが、アマオケの楽しみだ。そうした演奏に接することができた聴衆にとっては、アマだのプロだのという区別は雲散し「横浜フィルハーモニー」という固有名詞はくっきりと記憶にとどまることになるだろう。

『復活』は演奏時間もかかり、演奏者の数も必要とする大曲なので、プロの楽団だってそう滅多には披露しない。私が実演に接したのは、たったの3度だけ、秋山和慶の東京交響楽団(?)、井上道義の新日フィル、小澤征爾ウィーン・フィルで聴いた。小澤さんの旧知の方に連れて行ってもらい、カーネギーホールの楽屋で終演後に挨拶をさせてもらったのはいい思い出だが、1996年のその演奏会が『復活』を聴いた最後。今回は14年ぶりの体験になる。

ところで、正直なことを言うと、私はミレニアムをまたいでからというもの、まったくマーラーを聴きたいと思わなくなってしまった。年齢的には40歳を過ぎてから、ということになる。マーラー志向と男性ホルモンの分泌には相関があるかもしれず、あるいはマーラーと脂っ濃い食事、たとえばビフテキ、トンカツ、焼肉などというものどもとの嗜好にも相関があるやもしれない。

マーラーの音楽、とくに初期交響曲の類は、自分に対する自信に満ち溢れ、世界が自分に征服されるのを待っているのだと思える年齢には率直にアピールする。マーラーブームと言われた1980年代に、サントリー・ウィスキーのコマーシャルで「やがて私の時代が来るとマーラーは予言した」と『大地の歌』をバックにナレーションが入るやつがあったが、「やがて」というフレーズは、マーラーの、とくに初期交響曲を支持するリスナーの胸にある心象をうまく表現していると今になって思う。「やがて、俺だって」は、葛藤を経て勝利へというベートーヴェン以来の典型的な交響曲のプロットだが、例えば時代が下って書かれた同類の名曲、ショスタコーヴィチ交響曲第5番に対し、頭でっかちな私たちは、そうした交響曲像に対する冗談や皮肉という印象からまったく自由になって聴くことは難しい。だとすれば、ベートーヴェンの実質的な終点は、この『復活』あたりにあると思っていいはずだ。

若者の音楽であるところの『復活』の演奏に若いエネルギーは不可欠だとすると、かつて一度だけ聴かせていただいた横浜フィルハーモニーの元気のよさには期待を抱かせるものがある。そこからどんな音楽が生まれてくるのか、それをマーラーを聴かなくなってしまった中年男がどんな風に受け取ることができるか。明日の対決には、我ながら興味津々のところがある。

ちなみに、個人的な趣味を申し述べると、マーラーは熱い軟体動物のようなバーンスタイの演奏ではなく、鋭利なセラミックの刃物のようなショルティで聴きたい。いや、今は聴かないと書いたばかりなので、そう言ってしまってはつじつまが合わないが、かつてはそうだった。ショルティは、80年前後にカラヤンが君臨していたベルリン・フィルに客演し、圧倒的な『復活』の演奏を聴かせたことがある。CDで普及しているシカゴ交響楽団と(ショルティのことだから当然だが)まったく同じスタイルの演奏だが、バーンスタインベルリン・フィルに客演して残したマーラーの9番同様の名演で、凄みはシカゴの演奏を凌ぐ。リアス放送協会が録音を持っていたはずだから、ぜひ、これが世に出て欲しいと願っている。「やがて」と野心に満ちていた、若かった自分の心の木霊が聴けるかもしれない。

サントリーのCMは、案の定YouTubeにあった。




こちらはショルティシカゴ交響楽団の『復活』。

マーラー:交響曲第2番「復活」

マーラー:交響曲第2番「復活」