ピアノは担ぐためにあるのではなく

もちろんピアノは担ぐためにあるのではなく、弾くためにある。あるいは聴くためにある。ピアノが弾けない僕にとって、それは後者、もっぱら聴くためのものとして存在している。ところが、我が家でピアノを弾いていた子供が就職して家を出てしまい、生のピアノの音はどこからも聞こえてこなくなってしまった。いまや、ピアノの音は我が家のオーディオ装置から聞こえてくるばかり。

スピーカーから聞こえてくるのは、リヒテルだとか、ポリーニだとか、内田光子だとか、世界中で名の知れた名人の演奏で、テクノロジーが一般世帯の津々浦々に伝播した時代でなければ、こんな名人芸は一生に何度も聞けないはずのものだが、そんな音楽がなんのひっかかりもなく、指先のコントロールひとつで流れ出る。指先の、と書いたのは、半年ほど前にネットワークプレイヤーを導入し、iPhoneiPadでオーディオ装置を制御するようになったことを指している。同じ技術といっても、レコードの体験とネットワークプレイヤーの体験は同じオーディオ体験と言ってよいものやらというぐらいに感覚が違うところがある。ちょっとのことだが、そのちょっとがすごく大きいというところがネットワークオーディオにはあるように感じている。オーディオ趣味的な音質のことはさておいて。

ご存じの方にはいまさらながら、ネットワークオーディオとはなにかについて補足しておくと、PCオーディオの進化形ともいうべきオーディオの形態で、レコードやCDプレイヤーの代わりに、デジタルファイルの形でサーバーに蓄積した音源をネットワークオーディオプレイヤーなる装置を通してアンプに送り音楽を聴くもの。このプレイヤーはインターネットに接続されており、高音質の音源をネットショップで購入してダウンロードして聴くこともできるし、手元のCDをパソコンを用いてデジタルファイルに変換し、それらを聴くこともできる。僕はもっぱら後者の仕方で活用している。

手元のiPhoneをささっとスクロールして聴きたい録音を選んで、ほいっとアプリケーションのスイッチをタッチするとステレオから音が鳴る。聴くのを中止したければ再度アプリのボタンを押すだけ。聴きたいディスクを変更するのは自由自在。レコードは言うに及ばず、CDだってここまで自在に音楽をコントロールできる感覚はなかった。ほんの少しのことなのだけれど、その少しが聴く者の行動にもかなり大きな質の変化をもたらしている。

具体的な視聴行動の変化という意味で分かり易いのは、聴き比べの容易さだ。これはクラシック特有の聴き方で他のジャンルには当てはまらないかもしれないが、同じ曲を異なる演奏家がどのように違った弾き方をしているか、ある曲の第一楽章で比べてみる、といったことがいとも簡単に出来てしまう。ベルリオーズ幻想交響曲の『断頭台への行進』の演奏を何十と並べただけのCDなんてものが売られていたが、一度音源をデジタル化して格納してしまえば、その種の聴き比べが普通に出来てしまうのがネットワークオーディオの便利さだ。レコードやCDだと、ディスクの出し入れという行為がはさまるので、容易さのレベルが違う。レコードからCDになって手軽さが一段進んだとすると、さらにもう一段ギアがチェンジされた感じだ。

で、音楽を聴くのが楽しくなったか。なんとも言えないし、どちらとも言えるし、ネガティブな感覚も体験することになる。ネガティブな気分というのは、つまり、選曲の容易さ、スイッチのオン・オフの容易さであることの直接的な影響で、音楽を選ぶこと、それは取りも直さず音楽を聴くことそのものという意味だが、そのことがとてもとても簡単なことだという感覚を覚えるということを意味している。簡単なというのは言葉として正しいかどうか分からないが、機器利用の手軽さという意味という意味を含み、であるがゆえに音楽を手軽に楽しめるという前向きな価値を包含しながら、その効率性故にそれらの演奏に接するかけがえのなさの感覚を薄めてしまうという心の動きを表現している。

あらゆる道具は結局のところ、なんとかとハサミは使いようということわざにつながっている。ピアノは担ぐためにあるのか? ピアノもハサミもオーディオ機器も使いようということのようで。