記号消費の時代が終わりつつあるのか

いま、佐々木俊尚さんの電子書籍電子書籍の衝撃』をiPhoneの小さな画面で読んでいる。5章立ての作品の真ん中辺りに相当する第3章にさしかかっているところだが、そこで縷々説明をされているのが、記号消費の時代が終わり、マスメディアが機能しなくなり、みんなが一つの音楽や本に群がる時代が過去のものになってしまっているという話。現象としては、物事の進み行きはそうかもしれないが、佐々木さんの説明には違和感がある。

音楽の世界で、ゼロ年代になってからミリオンセラーが急激に減っている事実を紹介し、佐々木さんはその理由についてこういう語りをする。

要因は複合的です。
最大の要因は、「みんなでひとつの感性を共有する」という「マス感性」の記号消費自体が疲労し、行き詰まってしまったことです。

続いて佐々木さんは日本の経済・社会の変化が変化し、一億層中流社会が崩壊していく時代において「「みんなと同じものを買う」というマス感性モデルが存在できるわけがありません。」と言い放つ。

このブログで折に触れて書いてきたことだが、僕の実感は、「マス感性」が変わったのではなく、単に社会環境、情報技術に裏打ちされた社会のシステムの変化によって、マスの規模が小さくなったというだけのことだと告げる。インターネットの世の中になって、マスはおびただしい小さなマスとして存在し続けているということだ。日本人の平均的な感性と規範意識はほとんど変化をしておらず、長いものにまかれ、集団に寄り添うことをよしとする日本人の本質的な気質はまるで変わっていないのではないか。「みんなと同じものを買う」という欲求は変わらず、ただ、皆が所属する大きい集団の中でそれをすることを禁止されているのがいまの日本ではないか。規範とする集団が小さくなれば、最後に個に至るかといえば、それは決してないという意味で、ライフスタイル・マーケティング的、広告代理店的にはそれをマス感性の消滅と仮に呼んだとしても、我々の生活にとってはあまり意味がないと思う。小さくなった規範集団の中で、我々は自分の居場所を確保することを個人の主張をすることに先んじて考え続けている。

これは佐々木さんの本論とは直接関係のない話。
それにしても、iPhoneでやたらとスクロールさせながら本を読むのは、やはりつらい。