『フューチャリスト宣言』を読む

発売された日の夕刻、会社帰りに有楽町の三省堂で購入した。

大学生の馬鹿息子に茂木健一郎さんの「クオリア日記」の存在を教えてあげたら、けっこう熱心に読んでいるようで、ごく希にではあるが「あの話読んだ?」などという会話が成立するのは親としてはいろいろな意味で嬉しい限りだ。『フューチャリスト宣言』も近いうちに息子に渡そうと思っている。若者を鼓舞する書物として、今をときめく茂木健一郎さん、梅田望夫さんの対談本の価値は小さくないと私は率直に思う。

この本は「天は自ら助くる者を助く」の気概に満ちあふれている。時代は明治か、と一瞬周りを見回したくなるようなメタファー満載である。茂木さんや梅田さんの名前に惹かれて本書を手に取る若者たちも、多かれ少なかれ、最初からそうした思想に共感できる資質を持ち合わせている人たちであるはずだ。うちの大学生もそうであって欲しいし、たぶん彼なりに身の丈に応じた前向きの影響を受けることだろう。

しかし、本書を読みながらに個人的に思い浮かべるのは「自ら助くる」精神がいま一つ足りない、高校野球少年の我が末っ子、それに類する奴らの行く末、フューチャリスト同盟の視野から必然的にこぼれ落ちる子たちの運命である。茂木さんは自身の組織との関係のあり方を振り返りながら、これから重要なメタファーは「所属ではなく、連携」と本書の中で語っている。たしかにそうなのだろう。自立した個人であることを前提に、インターネットのような新しい技術も積極的に活用しながら、社会と能動的に関係を結んでいくことが、新しい社会で成功していく方途であり、期待される能力であるとすれば、お馬鹿なうえに人付き合いも下手な子供らにとって、今よりも過酷なだけの未来が待ってなければよいがと、お二人の会話が威勢の良さを増すのに比して我が心配の種は肥大していくように感じられる。てな物思いにとらわれ始めると、インターネットやウェブはどこか遠い世界の話のようにさえ思えてくる。これは本書の内容とは何ら関係ない個人的な感想ではあるのだけれど。

そんな感想から本書自体の読後感にとって返すと、茂木さんの「フューチャリスト同盟」という言い方には、研ぎ澄まされたエリート臭がぷんぷんとする(いや、それが嫌いだ、嫌だと言いたいのではない)。茂木さんは世界で戦える知的エリート足ること、そうした人材を世界に向けて輩出することを積極的な価値として念頭に置いて発言しているという風に自然に受け取れる。茂木さんの学者としての立ち位置は率直にそこに反映されている。茂木さんの語る「フューチャリスト同盟」に入れてもらおうと思っても、並大抵のことではかなわなそうだ。ハードルは限りなく高い。

これに対して、梅田さんは「フューチャリスト」という言葉をもっと緩く広がりのある空間として使っているように思え、もう一度ページをめくってみたのだけれど、そこで「俺たちはフューチャリスト同盟だ」という言葉遣いの子供っぽさに夢を乗せる独特の言い回しは、一方的に茂木さんから発せられていたことに気がついたのだった。茂木さんは動いている自分を見せ、かつ積極的に自分を語ることによって、後に続く秀才を刺激しようとしているのに対し、梅田さんはもう少し広い層に向けて「みんな頑張れ」って言っちゃう人だ。茂木さんはそういう言い方は決してしない。そこがときとして梅田さんの発言の分かりにくさにつながっていると私は思う。だからといってそんな梅田さんを否定のメガネで見るつもりは毛頭ない。自らを助くる者たちに梅田さんの思いは届くだろう。

ところで文学的な興味をもってしたときの本書だが、想像していたほど面白くなかったところが面白かったと言っておこう。どっちに転ぶかは茂木さん次第だと思っていたが、本書全体の土俵が思った以上にインターネットやウェブで、私にはあまりにあっけなく感じられたほど茂木さんがその土俵に似合うような振る舞い方をするので、それが意外でもあり、つまらなくもあった。その意味では、梅田本としては前著『ウェブ人間論』の方が僕には何倍も面白かったし、『ウェブ人間論』の下敷きをなした『新潮』の「ウェブ進化と人間の変容』の方がさらに対談ものの醍醐味がストレートに出ていた。しかし、『フューチャリスト宣言』はそういう本ではない。お二人の他者に対する優しさ、繊細さがはっきりと感受でき、互いを敬い合う空気が全編に流れているのを知覚できることには、若者向けの書物としてはそれ自体に大いに啓蒙的意味があると言って良いだろう。

なお、昨年の7月にお二人の対談が「アエラ」に掲載されたときにも次のような感想を書いた。
http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20060731