ある第九の演奏会で思ったこと

もう数日前のことですが、夜になって昼間の音楽会場で第九を歌った親戚と電話で話をしました。安くない切符を送ってくれ、楽しませてもらった礼を述べたのですが、相手は電話の向こうでがっかりした様子で「ごめんね、せっかく来てもらったのに」というではありませんか。出来が悪かったというのです。


体をこわして昨年は参加できず、3年ぶりの第九でしたので、誰よりも歌う本人が楽しみにしていたのでしょう。その気持ちはよく分かりました。「前回歌ったときはたくさんのブラボーをもらったのに、今日はなにもなくて。でも当たり前よね、あんな歌じゃ」と本人は前回に比べて質の低かった合唱を嘆くのですが、どうも必要以上に卑下しているわけではない。なんと言って良いか、とっさに「いやいや、そんなに悪くなかったよ」と口走ってしまい、それでは「よくなかったよ」と言っているも同然だと内心あわててしまいました。


「ブラボー」の声がなかったのは本当です。演奏がもう一つだったのも、申し訳ないけれどその通りでした。でも、その責任は舞台に上がるのを楽しみにしてきたアマチュアの合唱団にではなく、オーケストラと指揮者にあることは火を見るよりも明らかでした。


音に深みがなく、そもそも低弦セクションが弱い。見るとコントラバスは3プルト、6本の編成です。これではしっかりした第九の音になりません。演奏それ自体も凝縮されたもの、その瞬間の音に何かをかけるような気合いが皆無で、するすると進むばかり。おまけに最近流行りのベーレンライター版という楽譜を使っているので、全体にスピードが速く、その印象に輪がかかります。まるで、窓際族のおじさんが仕方なく会社に来ましたというような演奏で、ともかくさっさと弾いて、仕事が終わったら早く帰りましょうと言っているかのようです。大いにがっかりしました。あんなに歌わないバイオリンを久しぶりに聴きましたし、バトンは綺麗で、合わせる技術は持っていても構成力と歌心に乏しい指揮者が降ると名曲もこうなるのかと唖然としました。


そのことをクラシック好きのAさんにメールで訴えたら、打って返す返信で、そのひどいオケは1軍半だと言うじゃないですか。よく聞けば、彼女は数年前にそのアマチュア合唱団の一員として歌ったのだそうです。この人、従兄弟があるオケで管楽器をやっており、ご自身も年中オケを聴きまくっていますので、ご自身オーケストラの音には確かな耳と判断基準をお持ちです。その人が言うことだから、まぁ間違いないだろうと思いました。もっとも、口の悪いBさんは、「あそこのオケはそんなもんですよ」と達観した口ぶりでしたが。


オケのスケジュールを見るとたしかに連日、第九、第九。ビジネスとしては一年のかき入れ時の重要な仕事なのでしょうが、あんなにたくさん講演が続いては緊張していい演奏をしてくださいと頼む方が無理な相談なのかもしれません。ただ、この日を楽しみにしてきたアマチュアの合唱団の皆さん、それにおそらく何人もいただろうこの日に初めて第九を聴いたり、オーケストラを聴いたりした人たちはどう思ったでしょう。とくに初めてコンサートホールに来た人たちには酷な経験だなと思います。あれを聴いて「なるほど、第九っていうのはこんなものか」と思って会場を後にした人は、たぶん二度とオーケストラのコンサートには足を向けないでしょう。少なくとも私だったらそうです。仕事で大変なのは分かるのですが、弾く方は毎日でも、聴く者にとっては一生に何度かもしれない、初めてかもしれないと思えばあんな演奏にはならないはず。彼らの仕事によって、クラシック業界は間違いなく潜在的なお客さんを何人も失ったのです。


私が生まれて初めて第九を聴いたのは中学校3年生の時のNHK交響楽団でした。今でも忘れません。指揮はオットマール・スィットナー。独唱陣も当時の日本のスターを集めた布陣でした。出来たばかりのNHKホールの一番安い天井桟敷の後ろから2列目の席。舞台が小さく、小さく見え、前半のハイドンはまるでラジオの音量を絞ったような頼りなさでがっかりしましたが、第九の終楽章、合唱の凄まじいばかりの迫力に気圧され、ふらふらになってホールを出たのを覚えています。コンサートも数を行けば何年かに一度、感動できる演奏会に当たるものですが、あのとき以上の心のふるえはその後経験したことがないかもしれません。初めての第九は、そんな思いを抱く演奏であってほしい。


しばしば言われることですが、東京のオーケストラは多すぎます。今プロのオケは何団体あるのでしょうか。それぞれのオケはお客さんを集めるのに汲々とし、団員の人たちは恐ろしい安月給で、それだけでは食べていけないから副業でくたくたになるまで弾いている。例えば、音楽の都ウィーンはコンサートオケは、ウィーン・フィルとウィーン響の2団体。ロンドンはロンドン響、ロンドン・フィル、フィルハーモニアの3団体、ニューヨークでは、ニューヨーク・フィルと日本では誰も知らないマイナーな一団体のみですから、8つぐらいあったはずの東京に比べると実に少ない。供給過剰による過当競争で疲弊している現実は誰が見ても否めません。弾く者も聴く者も不満を募らせる悪循環を、先日の第九の演奏を聴きながら実感しました。


最近、アマオケを聴くようになってはっきりと感じるのは、演奏の感動は演奏家の技術と魂によってもたらされるということです。その二つが備わった演奏が名演なのだと。だから、技術があって魂がない演奏よりも、技術がなくても魂があるアマチュアの方が感動を誘うということは実にあり得ることです。そんなわけで、最近はアマオケを聴きに行く。時々プロの技に浸りに、という行動パターンになりました。そこで思うのですが、やはり職業オケの数は半分でよい。残りの人たちは本来ならばアマチュアへ行くべきなのだと思います。月給取りをしながら、好きな音楽は少ない余暇の時間に精一杯演奏する。芸術が技術と魂の両方でするものである限り、その方がよい演奏になる可能性は少なくないはずです。


オープンソースなどのITの運動にも、同じ人間の熱意という点で通じるところはあるのだと思います。