アーノンクールのモーツァルト

週末にNHK教育テレビで放映したウィーン・フィルの東京公演の演奏を録画で聴く。指揮はニコラス・アーノンクール。曲目はモーツァルトの三大交響曲


アーノンクールはあまり好んで聴く演奏家ではない。でも、初めて聞いたときのことを覚えている数少ない演奏家の一人でもある。NHKのFM放送で流れていた交響曲第41番「ジュピター」があまりに個性的な演奏だったもので、いったい誰が振っているのだろうと思わず耳をそばだてた。それがニコラス・アーノンクールだった。ちょっとそういうアーティキュレーションは聴いたことありません、みたいなことを平気でやるし、急にテンポをギアチェンジしたみたいに変えるし、それを当時の自分がどう感じたかはまるで覚えていないのだが、終楽章の推進力に心が動かされたことだけはつい先週のことのように鮮明に記憶に甦る。ジュピターの推進力と言えば、ベームのいくつかのライブ演奏の録音が白眉だと僕は信じているのだが、このときに聴いた演奏はベームもここまでやらないぜ、というほどに怒濤の迫力で、びっくり仰天したのだった。それがアーノンクールだった。


それから時を経るうちにときどきいくつかの演奏を録音で聴き、生の演奏もアムステルダムに行った際にコンセルトヘボウの定期でシューベルトを聴いたりしたが、学究的な、新しい解釈を聴かせようというスタンスが前面に出た演奏が鼻につくことが多い。どうも肌が合わないのだ。


しかし、ことモーツァルト交響曲を振るとアーノンクールはそれほど無茶なことをやっているという感じがしない。ときどきおっとびっくりのルバートが入るが、そんな演出が奇異に見えないのは、この二十年、あまたの古楽の団体がびっくり演奏競技会みたいにいろんなことを始めたおかげで、おそらくこちらの耳がそうした派手な作為に慣れたからなのだろう。以前は、モーツァルトらしい対位法的旋律が誇張した掛け合いをする調子に驚いたりしたはずだが、今はむしろそれがとても自然に聞こえてしまったりする。

自分にとっての新しい発見は、彼の演奏が20年以上前の録音と基本的に変わっていない点だ。むしろ、やわらかくなっているかもしれない。彼の中で、普通の人がやらない個性的な解釈は突き詰めた研究の成果というわけなのだろう。ただ奇抜さを狙っているわけではないのはよく分かった。


ウィーンフィルはかつてカール・ベームカラヤンとやってきて、いまやアーノンクールが相手だ。こういう普通のことをしたがらない相手と音楽をするのはどんな感じなのだろう。それにしても、アーノンクールが振っても、ショルティが振っても、さすがウィーン・フィルの音の柔らかさ。ウィーン・フィルの音楽であることを止めない安心感は、やはりこの団体のかけがえのない価値なのだろう。これがコンツェルト・ムジクスやコンセルトヘボウが相手だと音楽はもっときつい雰囲気で流れるはず。現に手元にある80年頃アーノンクールとコンセルトヘボウによるモーツァルトの後期交響曲全集は、もっと、これでもかというほどアグレッシブな音がしていたと思う。いや、まてよ、もしかしたらそれはかつての第一印象のなせる技かも。久しぶりに聴き直してみるか。