仲間内のコミュニケーション

山手線の中に乗ったら、横に相撲取りがいた。操作をしている携帯電話がおもちゃに見える。立派な体躯に巾着と浴衣がけ。どうしたって皆の目が集まる。


「どこの部屋ですか?」と声をかけたら、「M部屋……」如何にも面倒くさそうに小さな声で答えが返ってきた。「番付は?」 「幕下上位……」 下らないことを聞くなと言わんばかりのあらぬ方を眺める目つきなので、それ以上こちらもものを言う気がなくなった。


ところが、このお相撲さん、携帯電話で連絡が付いた同僚が次の駅で乗ってきたら俄然元気になった。まぁ、相撲取りのイメージは昔から訥弁と相場は決まっているが、この人の場合、別に訥弁という訳でもなさそうだった。結局、仲間内でなければ話ができない、典型的ないまどきの日本人だっただけなんだな。


それにしても、他人と対峙した際の日本人のコミュニケーション能力って、著しく低下していないですかね。単純な話が挨拶をしない、できない。他人と会話を交わせない。まるでそうすることが正義であるかのように他人を無視する。ところが、ひとたび知り合いのネットワークに入ると様子は豹変し、同じ人間とは思えない豊かな表情と能弁さが取って代わる。これは僕がよく知っている東京や首都圏だけの話なのかしら。同じ都市圏でも、大阪や仙台、札幌になると様子は違うのだろうか。すこぶる謎である。


ついでに言うと、数年前に大企業に転職した僕がうゎー面白いなあと思ったことの一つが、このコミュニケーション・サークルの入れ子構造の存在で、同じ会社の中でも、自分たちの部署の名の知れた同士以外は、エレベータに乗ってきてもものすごく他人行儀で挨拶しないんだな。そうか、大きな会社になると、社内でも路上の人間関係がちゃんと模倣されているんだなと、入社当時はとても新鮮に感じたものだ。


というわけで、日本相撲協会や親方衆は、国技の振興、人気回復を本気で考えているならば、もう少しちゃんと従業員教育をするべきだね。幕下上位と言えば、関取一歩手前じゃない。それなりの地位だ。昨日出会った彼に限って言えば、自分が相撲人気を担っている一員だという強い意識を持っていたとはとても思えない。それに比べると、米国で出会ったプロスポーツ選手は立派なものだった。同じ地域に住んでいたヤンキースの有名選手は地域の子供達が皆参加するリトルリーグの開幕イベントに出てきて子供達を鼓舞するし、アイスホッケーのニューヨーク・レンジャースの人気選手も僕の息子が対戦するチームのコーチ役で当たり前のようにボランティアを行っていた(さすがに彼の息子の運動神経は半端ではなかった)。挨拶一つできずにどうする。


そういえば、もう3年ほども前になるが、米軍基地が近い、とある街の体育館で息子二人とバスケットをして遊んでいたら、中高生の米国の子供達が遊びに来た。着ているものといい、ガムを噛みながら友達と話すさまといい、米国人特有の、一見しただらしなさ、よく言えばおおらかさが横溢する彼らが、僕の前を通るとき、「Excuse me!」、しっかりした声で声をかけて通り過ぎていった。僕も反射的にひと言「sure!」と答えたが、そのときの受け答えの清々しさをいまだに覚えているというのはどういうことだろう。


ケータイの安全な人間関係だけでぬくぬくして、あるいはブログの安全な独り言の世界に安住してコミュニケーション力を弱めていると、外で勝負できないよ。と、また説教くさい話になりました。