N響の音


ニューヨークに住まった4年間の間、浴びるほどオーケストラを聴いた。ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団のコンサートは最上階ならば十数ドルで聴くことができる。カーネギーホールに来る欧米の一流オーケストラも3階の桟敷の三十数ドルの席で楽しめる。東京のように名の知れた音楽家だと購入さえままならない環境とは違い、チケットの購入も別に発売日に並んだり、電話をかけまくらなくても無理なくできる。クラシック好きにとって天国のような環境であるわけで、ほぼ毎週のように時間を作ってはコンサートに通うことになった。様々な消費の場面で一家言あった開高健は、本質を知るためには金や時間に糸目を付けず一定期間そのことに没入するべしと言っていたが、僕もこの期間、耳の贅沢を尽くした。週に一度頑張って時間を作れば東京ではありえない音楽経験ができるニューヨークは、世界中でもロンドンと並ぶ特別な場所である。


クラシックの楽しさの幾分かは演奏家の聴き比べにあるが、ニューヨークはこの点でも実に都合のよい場所だ。コンサート会場はリンカーンセンターのエイブリー・フィッシャー・ホールかカーネギー・ホールしかない。カーネギー・ホールのコンサートはシリーズでチケットを購入し同じ席で聴くことになる。同じ条件の下で毎週のようにやってくるあちこちのオーケストラを聴き比べるわけで、その個性の違い、実力の差をいやが上にも知ることになる。そうやって、指揮者のみならずオーケストラを聴き比べる楽しさは、東京では気楽には味わえない。


僕が帰国する直前、99年の春に東京からNHK交響楽団がやってきてカーネギーホールで演奏会を開いた。4年間いて日本のオケを聴いたのは、このとき一度だけ。音楽を聴くのに「がんばれニッポン」もないはずなのだが、日本のオケだとそれだけで「がんばってね」「いい演奏してね」「ミスしないでね」と応援団モードになってしまう。ニューヨーク・フィル、シカゴ響、ボストン響、フィラデルフィア管、ベルリンフィルウィーンフィル、コンセルトヘボウ、などといった欧米の一流どころがやってきては演奏をする場所でNHK交響楽団がいったいどんな音を出すのか、興味津々、はらはらどきどきで見守った。

曲目は、武満徹『セレモニアル』(笙はもちろん宮田まゆみさん)、バーバー『バイオリン協奏曲』(独奏はイツァーク・パールマン)、とりにプロコフィエフ交響曲第5番というプログラム。アンコールがグリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲。指揮は当時の音楽監督シャルル・デュトワだった。


N響なかなかやるじゃん、と思った。弦の合奏が素晴らしく綺麗。音色は柔らかく、とろけるようで、キンキンと金属的に鳴るニューヨーク・フィルの弦なぞ比較にならない絹の美しさがある。パールマンを独奏者としたバーバーの協奏曲も、独奏者をその柔らかい音で包み込み独特の雰囲気を作り出していた。あんなにアンサンブルがずれない楽団ってないんじゃないかと思うほど統制がとれ、それも機械的に響くという風でもない。ヴィルトオーゾ・コンテストをやったらNHK交響楽団は世界的に見ても上位入賞の腕前だと思う。アンコールで演奏された『ルスランとリュドミラ』序曲に至るまで緻密なアンサンブルは破綻することもなく、終演後には盛大な拍手をもらって、にわか愛国主義者はほっと胸をなで下ろした。


でも他のオーケストラと比べるとN響は独特だった。ウィーン・フィルベルリン・フィル、シカゴ、クリーブランドといった超一流だけではない。例えば、チューリッヒ・トーンハレだとか、ベルリン響だとか、ミネソタだとか、そのクラスのオケと比べても、N響だけがどことも違う種類のオーケストラだったのだ。


何が違うかって、音量。やはり微妙に小さい。米国のオケは言うに及ばず、ドイツあたりのオケと比べてもフォルテの段階が小さく、こぢんまりとまとまってしまう。とくに想像していたとおり金管の差が顕著。だから、カーネギーホールではプロコフィエフの第5交響曲のように金管がばんばん鳴りまくり、そこで勝負を決するという感じではない曲を持ってきたデュトワは正解だったと感じた。


ということは自ずから、他の楽団に比べて楽器間のバランス、全体の音色が違うという結果をもたらす。比べるとほんとうに独特の色をしているのだ、N響の音は。学生時代、東京で日本のオケを聴いていた頃は、録音と生とでは聞こえ方が違うなあ、そういうものなんだなあと思っていたのだが、ある時、アメリカの一流オケを聴いたらレコードの音色がそのまま聞こえてきてびっくりしたことを思い出す。


以前は、こういうのは悔しいなあ、日本のオケ、もっと上手にならないかなあと考えていたものだが、最近はちょっと違う風に受け取るようになった。グローバル化が進んで、地域の固有のものが薄れるのは面白くないという感じ方を自然とするようになってきたことと無縁ではないと思うのだが、日本のオケが欧州の音楽をやって、彼らと違ったり、彼らにある意味劣ったりするのはそれはそれで面白いじゃないか、とそういう考え方である。日本のオケの音を、それ自体として、固有のものとして楽しむのもいいのではないか。「がんばれニッポン」はほどほどにして、嫌なら別の音楽を聴くことにする、そう考え、そこでセーブしたストレスは別の方面で使うことにする。