牧羊犬は頭を垂れる

このところ、『三上のブログ』では札幌大学の三上先生が繰り返しグーグルやWebの危険性について読者の注意を喚起していらっしゃる。

■21世紀の思想を語るなら(『三上のブログ』2006年9月8日)
■アウラとクオリア(『三上のブログ』2006年9月9日)
■ウェブ進化とエグジログラフィ(『三上のブログ』2006年9月15日)


三上先生の視線は100年規模の大きな変化に向けられており、僕の想像力は残念ながらその射程の長さにはついていけそうにない。僕自身も情報技術の受容をめぐる危機感を、自分の身に起こった変化として実感している者の一人だが、それはもっと卑近な経済的、社会的なレベルをめぐって感知される類のものだ。でもせっかくだから、すこしそんな話を。


インターネットに代表される情報技術に対し、とても素朴ではあるけれど、僕はカートライトだの、ホイットニーだのの紡績機の発明、ワットを初めとする蒸気機関の発明と産業への適用で、産業革命時に数多くの毛織物職人はじめ伝統的な手工業者が駆逐されてしまうという話をどうしても思い起こしてしまう。僕自身は1980年代から90年代にかけて通信関係の市場調査の仕事をしていた。その当時、僕が仕事をしていた勤め先では米国政府の公式文書を始めとする他では簡単に入手できない数々の海外情報を購入していた。そんな情報へのアクセスの優位が競争優位を形作っていたし、VAXのミニコンを持ち、SASのプログラムを走らせることができることすらが同じようにそれなりの競争優位を作っていた。

そんな、今から考えれば牧歌的な世界で羊飼いみたいな仕事をしている環境が成立しなくなりそうだと真面目に思いこみ始めたのはおそらく1997年頃。米国駐在中だった僕は自分の会社が後生大事に買っていた米国公式文書が米国政府のWebサイトで誰もが目にできる世界が始まる事態に直面し、あるいは簡単な統計処理がEXELで処理できる現実を知って、これは自分自身にとって大いにまずいことが起き始めたのではないかと疑い始めた。たぶん、その感覚を持ったこと自体は人よりも早かったのではないかと思う。

産業革命がもたらした綿布の普及によって駆逐された毛織物産業の一員、羊飼いか、もしかしたらせいぜい牧羊犬でしかなかった僕の仕事は、コンピュータとインターネットのおかげで大いなる影響を被った。知的ブルーカラー仕事はお呼びではなくなってきたのだ。同じことは、同じ時期に産業用のデザイン関係の仕事に従事していた弟の身にもおよび、AdobeIllustratorは彼の手書きの技術をあっという間に無価値にする方向に機能し始めた。

知力、創造力、バイタリティに富んだエリートであれば、ここに巨大なチャンスを見るだろう。世にベンチャーが溢れ、数多のビジネス書やハウツー本が書かれ、新しい何かに向けて常に挑戦的であることを求める時代精神の登場である。もしもピアノが弾けたなら、もしもプログラミングやコンピュータ・アーキテクトとしての能力に恵まれていたならば、あるいは新しいビジネスを起こす想像力と度量を備えていたならば、こんなに楽しい世界はない。しかし、現実には、僕らの周囲には慣れ親しんだ労働の形から疎外された者の苦しみが充ち満ちている。全体を振り返れば一握りに過ぎない成功者を肯定する価値観をほんとうにこの国の人々は望んでいるのだろうか。そんな問い自体を無力化するのがグーグルに代表される米国型IT競争社会だと、非エンジニアの僕は消費者としての期待を持ちながら素朴な嫌悪感を感じている。嫌だからと降りるわけにも行かない。「毒食わば皿まで」だ。

チャレンジからはじかれた平均的な市民が、情報技術に対して常にそれらを消費する者としてのみ向き合うことを余儀なくされるのが現在の社会の姿だろうと思う。生産することに荷担できない自分は、デジタルカメラのユーザーとして、ネットサーファーとして、ブロガーとして、この進歩の時代の価値観と歩調を合わせ、心のバランスを取っていく(ブログは生産的な行為だろうという声も聞こえてきそうですが)。何故常に新しいことに向かって走り続けなければならないのか、何故立ち止まることを蔑まねばならないのか。時代の空気はそうした疑問を雲散霧消させてしまう。

本当に今起こっている情報化の流れが産業革命と呼ばれるものであるためには、かつての産業革命がそうであったように、駆逐される産業を覆い尽くしてあまりある新しい産業が立ち上がり、それらが新しい巨大な雇用機会を生み出していく必要がある。僕が情報産業の象徴としてのグーグルに感じる怖さというのは、一握りの情報工学のエリートの集まりが我々の情報消費の型を生み出す一方で、ごく小さい雇用機会しか連れてきていないという現実に起因している。

我ながら視点が狭く素朴な感想を書き連ねたものだとちょっと呆れるところもあるが、しかし、この問題については生活者としての視点を離れて発言する気にまったくなれないのである。