小澤征爾を聴いた

日本では長く新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督を務めてきたので、小澤さんを頻繁に聴いているクラシック音楽ファンは少なくないはずだが、僕にとって小澤征爾は好んで聴くアーティストではないため、彼の指揮姿を生で拝んだのは数限りがある。むしろ、それゆえに、僕にとって記憶の底にとどまっているいくつかの小澤さんの姿がある。


おそらく最初に小澤さんを聴いたのはパリのオペラ座。1982年の春のことだ。演目は『トスカ』。お金がなかった僕は一番安い席を買ったら、もっとも舞台際のオーケストラボックスの横にあるボックスの一番後ろの列だった。狭いボックス、最後尾の背の高いスツールに座ると、舞台は全体の4分の1見えるか、見えないか。舞台で何が起こっているのか、さっぱり分からない。その代わり、オーケストラボックスは丸見えで、指揮を執る小澤さんの顔と姿がはっきりと見えた。


『コンサートは始まる』でも記述されているとおり、小澤さんは世界でもっとも美しい指揮をする指揮者だと思う。その身振り手振りは舞台を観るよりも蠱惑的だった。また観客に見えにくい体の中心で、歌い終わった歌手に対し手のひらを小さく動かして「拍手」をしたり、眼で合図をしたり、その動きのすべてが魔法のように感じられた。


フランス語が理解できない僕には何を話していたのかさっぱり分からなかったが、前に座っていた若者二人は、幕間に「セイジ」「セイジ」と彼の名前を呼び交わして熱のこもった議論をしていた。終演後のカーテンコール、小澤さんへの拍手は他の誰にもまして大きく、劇場全体が音を立てた。正直に書くが、そのとき、僕は自分が彼と同じ日本人であることを何故だかとても嬉しく思った。


このあと、宿にとって返し、その当時フランスに留学していたNと落ち合った。安宿の、玄関脇の灯りに中にいるNの姿を思い出す。半年間、ドイツ語の勉強にドイツにいった道すがらだった。


二度目に小澤さんを聴いたのは、おそらく86年か87年頃のこと。五反田の簡易保険ホールで新日本フィルハーモニー交響楽団ベンジャミン・ブリテンの『戦争レクイエム』を演奏した時。あのころは、勤め先では常に一番下っ端で、ともかくできることは何でもやるという感じだった。無茶苦茶に忙しく、いつも作業に追われていた。しかし、今になってみると、いったい何をしていたのか、ほとんどその内容を思い出すことができない。そして、初めて聴いた『戦争レクイエム』も小澤さんの指揮も、霧の向こうに霞んでいる。


三度目はニューヨーク。90年代後半に駐在している間は小澤さんが音楽監督を務めていたボストン交響楽団が毎年カーネギーホールでシリーズの演奏会を開いていたので、結局この期間は何度となく彼の演奏会を聴くことになったが、ニューヨークで最初に聴いたのはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と演奏したマーラー交響曲第2番「復活」。小澤さんが得意としている演目、『コンサートは始まる』でも取り上げられている合唱付きの巨大な作品だ。ホールが鳴動した。


このときには、同じ職場にいた小澤さんの桐朋学園時代の先輩の方に終演後の楽屋に連れて行っていただき、サインをもらい握手までして頂いた。カーネギーホールの楽屋は売れっ子ピアニストのキーシンなど著名音楽家を含めて小澤さんに話しかける人でごった返していた。よく写真で見る彼の名前が入った浴衣姿の小澤さんは、僕と握手をするとき、これ以上ない最高の笑顔を作ってくれた。実に堂に入った、彼に接するあらゆる人々に対する、作り慣れた笑顔だった。

今度、小澤さんを聴くのはいつだろう。