東中野の先の、島へ


今日は休みを取って、『島ノ唄 Thousands of Islands』(伊藤憲監督)を観に「ポレポレ東中野」に出かける。『三上のブログ』で勧めていただいた作品だ。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060808/1155021518


新宿から西は仕事を含めて自分の生活圏とは重なり合わず、ほとんどまったく足を運ぶ機会がない。だから新宿駅総武線に乗り換え、電車が駅を出発したとたんに、それだけで日常の外に投げ出されたような気分がする。新宿から二駅、東中野の駅前は東京のどこにでもある場末の街並みをここに置いてみましたとでもいいたげな無個性な風情。駅のプラットフォームに降り立ったら、線路の向こう側にある小さなおんぼろビルの固まりの中に頼りなさげな「ポレポレ東中野」の看板を見つけた。


映画は沖縄、沖永良部島奄美大島などをめぐり詩作を行う詩人、吉増剛造と南の島々の風景、その風景に溶け込む人々との交歓を92分にわたって追う。その間、ところどころに挟まる最低限の字幕スーパーだけが状況を説明する手段として用いられ、ナレーションと背景音楽はいっさいない。それにははっきりとした理由がある。何となれば、この映画は島々を包む音を描き出すこと自体を目的とし、そこに作者の手練手管を総動員して観る者の意識を集中させようともくろんでいるからだ。


映画の冒頭、沖永良部島の中央に存在する地下水脈に降りていく吉増さんが不安定な地面を踏みしめる音、彼の発する声、水音、それらを耳にしたとたん、この映画の主役が音であることは了解される。波の音、風の音、詩人が映画の中で絶えず響かせるカメラのシャッター音、銅板を叩く吉増さんのたがねの音、沖縄本島の基地を飛び立つ米軍機の爆音、基地の街の歓楽街から流れ出る音楽、子供たちの明るい嬌声、故島尾敏雄さんの奥様ミホさんが土地の言葉で語る昔話、三線にのって紡ぎ出される96才のおじいさんの島唄。そして吉増剛造さんが自作の詩を朗読する音声。ところどころ、突然に島に流れる音を遮断する人工的な無音の瞬間。


感性を刺激し続ける音と豊かな映像に囲まれながら、かつて自分が出会った、根元的な何かにつながる音や風景が意識の領域に浮かび上がろうとする。この静かな快感は何なのだろうと思う。


別の説明の仕方も出来る。この映画は島の自然と事物が吉増剛造さんを通して言葉に昇華されるプロセスを追った作品であるという言い方だ。もちろん、そうであることは間違いない。吉増さんがいなければこの映画はありえないのだから。風、波、水、雲。歴史。人。事物の力を前にそれらを受け止め、我々に伝える役回りとしての吉増さん。言葉として適切かどうかは分からないが、シャーマン的な役回りを担う人物、あちらの世界とこちらの世界を結ぶ結節点として機能する人物として吉増さんの姿と声に僕らはスクリーンのこちら側で大いなる安堵の気持ちを抱く。突拍子もない話を混ぜて恐縮だけれど、『ウェブ進化論』で梅田望夫さんが日本のインターネット利用者やエンジニアに向けて果たした役割は、この映画の吉増さんにとても似ている。


これからこの映画を観る方のことを考えれば、少し僕はおしゃべりに過ぎるかもしれない。一線は踏み越えていないとは思うのだけれど、どうだろう。もう一つだけ、言いたいのは、この作品の監督の感性と技術の確かさについて。五感をすませて何かを感じる喜びはなんびとにも与えられているとしても、それを他者に伝える技は表現者といえる者だけが持つ特権だ。それを伊藤憲監督はお持ちである。この方の音の扱い、自然の音がそこに存在する様を伝える技術は、一見すると素朴に見えてとてもそんなもんじゃない。下手をすれば「あざとい」という批判が起こる一歩手前で、しっかりと聴かせたい音を選び取る感性とそれを聴かせる音響処理の技術。すごい。


あなたが島々に興味を持っている必要は何もない。吉増剛造に対して知識を持っている必要もない。あなたのなかで、我々を存在せしめている根元的な何かに触れる感触を思い起こしたいと、小さな願いが閃くことがあるならば、ぜひ思い切って東中野まで足を運ぶことをお勧めしたい。上映は午前10時半と午後9時から90分。二の足を踏みそうになる時間帯だけれど、無理をしてみる価値は、とても、ある。

■『島ノ唄 Thousands of Islands』のホームページ