誰に向けて

昨日でこのブログの100エントリー目だそうで、節目の意味で、ブログに対して現時点での感想を書き記しておこうと思う。

検索エンジンを前提とした作文の面白さとして、今僕がもっとも感じ入っている部分は、作者ではなく、事物やイベントそしてそれを表象する言葉を目指してお客さんが集まるところにある。この不思議さの感覚には、まだ慣れることは出来ない。

学生時代から運良く署名記事をかかせてもらう機会があり、それ以来、社会人になってもたまの機会を掴まえることが出来れば喜んでそれに応じてきた。今の勤め先では社内報の記事書きすらやっている。そうこうしているうちに習い性となってしまったのは、媒体に合わせて文体をずらすという意識と行動のパターンだ。その媒体が望む方向、編集者の注文、読者の嗜好、そうしたものをいったんに咀嚼して方針を立てた上で、お客さんに出来るだけ喜んでもらえるモノに仕上げる。これは、僕が長くビジネス顧客に対して受注生産によるレポート書きを生業としてきたことからも補強されてきたほとんど無意識の方法論である。

そこでは、トピックやテーマとともに、媒体が持つ空気がものを言う。お客さんは何を求めてその空気を吸いにやってきているのかを想像し、そこに自分をどうなじませるかを決める。スポーツ雑誌、一般週刊誌、業界紙、産業紙、学術専門出版社の宣伝誌、全国あちこちの紙面に掲載される小さなコラム。何を書くにも、それが自分の名前で出るものである限り、決して自分の文体を崩さないという強い意志とお客さんのニーズに合わせて読んで喜んでもらえるものを書くという二つの意識をバランスさせる。好むと好まざるとにかかわらず、それが僕にとっての文章書きだった。

ところが。しかし。この個人ブログという新しいメディアにあっては、そんな前提条件が皆無なのだ。だからどうすればよいのかと客寄せに無自覚でのほほんとしていた僕は思わず考え込んでしまう。

ブログを進めるもっともオーソドックスな方法は、書き手が自分の意志によって自分にとっての平均的な読者像、理想的な読者像を思い描き、そこに向けて発言をすることだろう。よくできたブログはここにブレがないために読者の信頼を勝ち得ることが出来、それが読者数の確保を可能にするのだと思う。この場合、読者の種類に広がりはあっても中心はあり、そこをはずさないことが重要となる。××のファンのサイト、○○の技術を中心としたサイト、コンピュータエンジニアに読ませるサイトなど、こうした種類のよくできたサイトは誰にどのようなメッセージを送っているかが一目瞭然となるだろう。

これと二律背反的に存在するわけではないが、もう一つの考え方は、検索エンジンを頼りに情報収集に精を出す潜在読者を対象にするWeb2.0型媒体の発想である。そこでは、もちろんキーワードが絶対的な重要性を持つ。ある意味でそれがすべてである。複数のキーワードを用意し、仮にそれらがそれぞれ独自の光を放つものであれば、キーワードAとキーワードBが何ら連関を持たずとも媒体は成り立つ。スポーツの話と、オーディオの話と、小説の話と、マーケティングの話と、技術の話。それらを手変え品を変え語り続けながら、それぞれには何ら交わることがないお客さんを獲得していくことが出来る。僕が感じているブログの不思議はそういうことだ。これは読者にとっては特別なことを意味するものではないが、情報発信をする側の人格と意識にとってはかつてはありえなかった舞台装置である。

この新しい世界で大きな重要性を持つのは「ものの名前」だ。産業用語を使えばブランディングの才、もっと直裁に言えばコピーを作る能力が非常に重要となり、それらを共有することの意味や価値が問われるようになる。共通言語の問題だ。その現場でオールドメディアや既存の権威が白亜紀ティラノサウルスのように幅を利かせるのはますます難しくなるだろうが、では権力はどこに移るのか。

このサイトが精神分裂気味の舞台設定で進むのか、大きな意味ではどこかのテーマ、トピックに収斂していくのか。楽しみに進めていくことにしようと考えている。