においの記憶

音による記憶よりも言葉による記憶の方が強いのではないかと昨日書いた。しかし、一夜経って考えると、単純にそうとばかりも言えないような気もする。例えば十代の頃から感銘を受けてきたジェームズ・ゴールウェイの笛の音。とくに知っている楽曲ならほぼ間違いなくそれをゴールウェイの音だと感じることはできるはずだ。記憶に引っかかる閾値がどこかにあって、それは人によってかなり違うのだろう。人がジュピター交響曲を思い浮かべるとき、頭の中でいったいどれだけの旋律、和音が再構築できているだろう。プロの音楽家はすべてが頭の中で鳴るだろうが、私なら旋律とあとどれだけ鳴っているだろう。

外国に行って新鮮な驚きとともに記憶に残るのはにおいだ。初めてパリに行ったときに、花の都に満ちたたばこの香りに強烈な印象を受けた。ドイツの大衆レストランの豚の脂のにおいも記憶の底にこびりついている。

においは視覚などに比べると、メディアを通じて入手しにくい類の情報なので、強烈な記憶を喚起しやすいように思う。だから、生まれて初めて30歳を過ぎてアメリカに降り立ったとき、それはロサンジェルスの空港だったが、固有のにおいが感じられなくて拍子抜けした。日本とたいして変わらないにおいの国、がアメリカの最初の印象だったわけだ。

もっとも僕は鼻が利かないことで家族から笑われてきたような人間だから、においについてはおそらく最も鈍感な感想しか書き綴る自信はない。鼻がよい人なら街中でにおいの地図を書くことができるのかもしれないが、それは鼻の利かない男の想像か空想の域に属することだ。