第九の誘い

高校時代からトランペットを吹いていたK君から「第九を歌わない?」とのお誘いがメールで来た。彼が中心人物としてずっと面倒を見ているアマオケの演奏会への出演依頼である。うーん、と思わずうなり声が出てしまう。この機会を逃せばもうこんな誘いが来ることはないのは必定だ。だが、この忙しさで楽譜を覚えトレーニングをし、練習に出ることが出来るか? 趣味のフルートもまったく手に出来ないのに、歌にかまけてよいものか? 悩ましいの一言に尽きる。

第九といえば、古今東西の名盤あまたある中で、フルトヴェングラーバイロイト録音をいわゆる“決定盤”に挙げるものと、これはどうやら我が国だけではなく相場が決まっているようだが、この種の音楽にもっとも入れあげていた学生時代にもっとも親しんだのはショルティとシカゴの最初の録音だ。ショルティの演奏は色気に欠けるという批判があるのは承知の上で、彼の第九はこの指揮者のもっとも優れたCDの一つだと確信している。90年頃にデジタルで取り直した盤は、どこか角が丸くなってしまい、ショルティおじさんの美質が見えなくなってしまっているので避けるべき。70年代に取ったミントン、タルヴェラ、ローレンガーらが歌った盤はベートーベンの推進力と構造感がある種の理想を満たすかたちで記録されている。

実演では、中学生の頃に生まれて初めて聴いたスイットナーとN響の演奏が、自分にとっての感銘度ではとどめを刺す。最初に生で第九を聴いて感動しない者がいる方が不思議だが、当時15歳の少年は、聴き終わってしばらく頭がくらくらしものが言えないほど強烈な印象を受けた。75年(?)に東京文化会館で聴いたノイマンチェコフィルの演奏はチェコの合唱団が素晴らしかった。最近録音が出ているカラヤン普門館での演奏もあのだだっ広い空間で聴いたっけ。皆、いつしか第九のような派手な曲を一生懸命に聴く習慣から遠ざかりだす。最後に聴いたのは外山雄三N響の演奏会で、もうおそらく二十年以上前のことだ。この手の曲への嗜好が一つの若さのバロメーターであることはおそらく間違いない。