故郷の水

数日前に小野さんと会ったときの話を書いたときに、うろおぼえで開高健のエッセイを少し引き合いに出した。開高さんがちゃんと覚えていないのだがと断りを入れて書いていた話を、さらに朦朧とした記憶で引用したので、気になって原典に当たってみた。原典というのは、つまり開高の文章という意味である。

スタインベックではなかったかもしれないが、掌編で忘れられないものに、もう一つある。いま読み返していないのできっとおぼえちがいがあると思うが、私の記憶のなかではこうである。おそらく、ある夕方、一人の若者が放浪にくたびれて故郷の小さな町に帰ってきて、ある家の庭のよこを通りかかる。すると、一人の老人がホースで水を芝にまいている。若者が垣にもたれて水滴がほとばしるさまに見とれていると、老人がよってきて、ホースの口をさしむけ、一杯いかがといって若者に飲ませてやる。若者が飲みおわって手で口をふいていると、老人は、「何といっても故郷の水がいちばんだよ」
といって去る。
これもただそれだけの記述にすぎないのだが、『朝食』とおなじほどあざやかに記憶にのこっている。若者がどういう放浪をしたか。どんな国でどんな経験をしたか。いまその結果としてどのようにくたびれ、体のなかには何があるのか。そういうことは何一つとして説明してなかったと思うし、老人のこともほとんど説明はなかったと思うが、そのときの滴のほとばしりかたや水の味が白いページからひりひりつたわってくるようであった。かけがえのない感触が私の記憶に残されている。
開高健「飲む」(『白いページ』(角川文庫)所収)より)

きれいな文章だ。死ぬまで旅をし続けた開高さんの言葉であることを思う。そうかもしれないと思う。しかし、同時に開高健は死ぬまで旅をし続けたのでもある。そのことを思う。