マチエール

今日のmmpoloさんのエントリーがとても面白い。その最後は次の一節で締めくくられている。

画家であり美術評論家の門田秀雄さんは平山郁夫について、彼のマチエールは特別だ、輝いている、それが人々を惹きつける大きな魅力なのだと教えてくれた。
(晩年の村井正誠と猪熊弦一郎 (『mmpoloの日記』2007年10月27日)


mmpoloさんは別の日のエントリーで平山郁夫はつまらないと洩らしてらして、それには僕も同感。平山の画って、様式化されすぎて漫画チックな印象すらある。イメージとしては平凡なものだと思う。しかし、それを言ってしまうと日本画の大先生たちの数多くがそう。これは何かこの世界は別の価値観があって、それを競っているとしか思えない。そうでなければ、ああした巨大な作品を懸命に描いて、それをまた数多くの鑑賞者が追いかけ、大金で流通されるなどということが起こるはずがない。


それが「マチエール」だという。ある意味でとても納得した。日本画のマチエールの差異など僕にはほとんど意識に登らないし、画家A氏とB氏のマチエールの違いを認識できるかどうかも分からないのだから。


とても納得したもう一つの理由は音楽でも同じような楽しみ方があるから。たとえばフルート奏者のジェームズ・ゴールウェイが例に挙げられる。ゴールウェイは、カラヤン率いる世界最高のオーケストラ、ベルリンフィルの主席フルート奏者をカラヤンの強い慰留にもかかわらずけってソリストになったことで有名なアイルランドの名人。ものすごい技術を持っている。ただ、彼は人柄は気さくでユーモアのセンスに満ちていて、軽いポピュラーな曲を好んで演奏したりもし、ポピュラーのスターと競演するなどエンターテイメント志向がものすごく強い。それでクラシックのファンの一部からは馬鹿にされたりする(はず)。また、クラシックの曲を吹かせると、この人あまりに技術がありすぎて、そのすごさを聞かせるような典型的ヴィルトオーゾ型演奏に陥る印象がある。

かくのごときで毀誉褒貶のはなはだしいスーパースターなのだが、この人のすごいのはその「音」なのだ。ゴールウェイの音は、最近のスター奏者を僕は知らないので、いまこう言い続ける自信は正直言うとないのだけれど、20年前には「えっ、この演奏だれ」と流れてくる録音に耳がそばだつと、それはゴールウェイだというぐらい他の誰にも出せない音を持っていた。実演でも何度も聴いたが、ときに彼の演奏は技術の高さを聴かせる軽い印象の演奏に流れる傾向は認めるとしても、その誰にも真似ができない音そのものによって僕を何度もコンサートに引きつけるのだった。
まさにマチエールである。