しばしばというべきか、ときどきというべきか分からないが、ここでは音楽を体験した話を書いている。コンサートを聴いたり、CDを聴いたりした感想文である。そうした話を書く際、好き・嫌いの吐露を超えて何かにつながる感覚が表現できないのは、見えていないものは描けないからなのだが、「そう言ってしまっては身も蓋もないじゃないか」と思う気持ちも確実にどこかに存在しているような気がする。
語ることによって、文字にすることによって、運よく自分にとってきれいに自覚できているわけではない何かが、それ以前よりも少しだけ見えるようになったかもしれないと思うことが、ごく希にだがある。ブログの場合、読んでくださる方から頂くコメントやトラックバックや☆などのコミュニケーションによって、それがくっきりと確認できることもある。特定の作品に対する好き・嫌いを超えた、もう少し普遍的な何かに触る感覚を手にしたのかもしれないと、なんとなく腑に落ちる感覚である。そうした実感を(もしかしたら幻想かもしれないが)手に入れる契機としてブログが活用できれば、これは素晴らしいことだなと思うし、毎度とはいかなくても、そうした契機を与えてくれている道具がブログであるという期待は持ち続けている。毎度のエントリーを書くたびに、あとほんの少しの根気、辛抱、一瞬の熱意、たまさかの集中、そうしたものがあれば、自分以外の誰かにつながる、鏡のようにそれによって自分自身が見えてくるような何かを表現できるのではないか。そうした気持ちを忘れると、ブログのエントリーはあっという間に自己欺瞞や単なる自己満足の発露になってしまうところが面白い。
最初に戻ると、音楽の話はなかなかそういう風に書けたためしがない。書きたい意識は、うまくいけば表現されているかもしれない。しかし、何に突き動かされているのか、何を表現しようとしているのかは表に出て行かず、自分のなかをぐるぐると回ってしまうのがいつものことだ。それでも「何かを言いたい」という気持ちは満たされるというのが、ブログの重要な役割で、それは俗な言葉で言えば「ガス抜き」ということになるのだろう。
最近、そんなことを考えたりしていると、ブログを書くのが楽しかったり、ときに躊躇してしまったり。