以前、小林秀雄大先生がモーツァルトに比べたらハイドンには欠けたものがあるように聞こえてしまうと書いているのに生意気にも難癖をつけた。
村上春樹の『海辺のカフカ』を再読していたら、ハイドンについて村上さんが登場人物の一人である喫茶店の店主の口を借りて、こんな風に語っているのを発見した。
「ハイドンはある意味では謎の人です。彼が内奥にどれほどの激しいパトスを抱えていたか、それは正直なところ誰にもわかりません。しかし彼が生まれ落ちた封建的な時代にあっては、彼は自我を巧妙に服従の衣で包み、にこやかにスマートに生きていくしかありませんでした。そうしなければ彼はきっと潰されていたでしょう。多くの人々はバッハやモーツァルトに比べてハイドンを軽く見ます。その音楽においても、生き方においても。たしかに彼はその長い人生をとおして適度に革新的ではありましたが、決して前衛的ではありませんでした。しかし心をこめて注意深く聞き込めば、近代的自我への秘められた憧憬をそこに読み取ることができるはずです。それは矛盾を含んだ遠いこだまとして、ハイドンの音楽の中に黙々と脈打っているのです。たとえばこの和音をお聞きください。ほらね、静かではありますが、少年のような柔軟な好奇心に満ちた、そして求心的かつ執拗な精神がそこにはあります」
思わず「いよっ、村上春樹!」とかけ声をかけたくなった。7月17日のエントリーで『意味がなければスイングはない』を紹介させていただいたときにも書いたが、村上さんの音楽に対する語りは掛け値なしに素晴らしい。この文章中の肝は「心をこめて注意深く聞き込めば」だ。これはハイドンの本質を言い当てた言葉のように感じられる。
ハイドンの曲を聴いてモーツァルトやベートーベンに劣らず素晴らしさを語るようになるには、ベートーベンに入れあげ、モーツァルトに心酔し、しかるのちに何年、何十年も経ってハイドンに辿り着くという迂回路を辿る必要が誰にとっても必要なはずだ。“心をこめて注意深く聞き込”むことですら、それ相応の時間を費やした後にうまくいけば会得できるような、一種の技術であることをハイドンの音楽は教えてくれる。だからハイドンを人に勧めるのは、ほんとリスキーだと思う。軽い、クラシックのイージーリスニングだと思われちゃったら、小林秀雄の犯した失敗の二の舞だ。