こだわりはよいか、わるいか?

昨日の演奏会の感想文は、自分自身に対してある種の規制が働いた。「おめでたいミューザ川崎のリニューアル記念演奏会なのだから、あまりひねくれた文章を書くのはやめよう」というスイッチが何気なく作動してしまったという意味である。

ほんというと、昨日のブルックナーは気に入らなかった、と言うべきなのかな。どんなふうに言ったら本当に正しいのか、自分の気持をしっかり表現することになるのかがよく分からないのだけれど、ブルックナー交響曲9番は、これ以上ない憂鬱さが音のそこかしこから滲み出るような音楽、行き止まりの道を眺めるような気分が否応なく楽曲を覆うのをいかんともしがたい音楽であると僕の心には刷り込まれている。そうした者にとって、スダーンと東京交響楽団のよく歌う演奏は、そうした暗鬱な気分を一掃しようとする無粋な試みにも聴こえたのだった。

冒頭、ブルックナーの十八番である弦のトレモロの上に出現する空虚な第一主題。この時点ですでにスダーンと東京交響楽団は、この曲の力強さを表現しにかかる。原始霧がくっきりと聴こえ、ホルンはピアノのメロディをしっかりと意志的に歌う。スコアの最初の数ページ分で、この日の演奏が自分が想像していたものとは異なるタイプに属するのを悟った。ホールはくっきりハイファイ風だし、そのくせ深々とした低音は聴こえてこないし。

ちょっとだけ面くらいながら、そういう9番もあったのだなと、出会った演奏を楽しむことができるようになった。50年以上生きてきて、成熟できたと思える部分はそれぐらいなのだから、その偏屈さ、視野の狭さに我ながら呆れる。これからせいぜい音楽会をのんびり楽しみますか。