外国で感じたごく小さな不愉快の思い出

ニューヨークに駐在を始めたとき、ドイツ語は少ししゃべれるが、英語はあんまり、というのが僕の英語力だった。こういうことを書くと、それだけでいけすかない野郎だと感じる人が世の中にたくさんいるかもしれないが、このブログ界隈だと、その種の心配はあまりいらないところがいい。この空間が梅田望夫さんのいうところの「志向性の共同体」である所以なのだと、そんな風に信じて先に進ませていただく。

で、である。4年もいて毎日英語をつかって仕事をすることを余儀なくされれば、いくら下手でも道具はそれなりに使えるようになる。ニューヨークにいる間にドイツに4回出張し、一度遊びに行ったが、いつの間にかドイツ語は少し、でも英語はもう少しという感じにはなった。どっちにせよ、たいした力量ではないのは自分が一番よく知っているが、比較考量の問題でいうと、そう。最初に行ったとき、二度目に行ったときには、下手なりに日独語の通訳の役回りで参加したので、そんなことはなかったが、一人で出かけた最後の二度は、仕事の場面では英語しか使わなかった。

言葉は大切である。言葉が変わると、世界が違って見える。実際、言葉が変わると出入りする情報の量と質が変化する。言葉にはその国の文化、規範意識、美意識といったものが分かちがたく結びついているのだから、違って見えるのは当然である。

1999年、最後にドイツを訪れた際に、ある電話会社を訪問した。その訪問では仕事に関する限り最初から最後まで英語で通した。そうしたことで、違った景色が見えた。下手なドイツ語を一生懸命話そうとする外国人に対し、ドイツ人は一般的にとても優しい。昔から、「ドイツ人は日本人に対して友好的だ」と語る人がたくさんいて、個人的にもそういうコメントを聞く機会はたくさんあったが、僕の観察では、ドイツ人は日本人が好きなのではなく、日本人のように自分たちに対してあからさまに腰を折って接してくる態度の人々が好きなのだ。それを単純に彼らの優しさと解釈すると、大いに間違う。

それはともかく、話の先を続けると、結果としてその電話会社で、僕はドイツ語の「ド」の字も出さずに、英語しか喋らない外国人としてふるまった。そうすると、電話会社の社員同士がドイツ語で話している言葉が、聞こえてくることになった。そこにお世辞もおべんちゃらも混じらない、仕事のトピックに関する判断や意見やらが含まれている。ますます、ここで「ワタシー、スコシ、ドイツゴ、シャベリマスー」などと言えなくなってしまった。

帰りがけ、仕事で会った人物と別れ、秘書のおねえちゃんに「ありがとう、帰ります」と声をかけたら、ねえちゃんが、後ろの方にいた同僚たちの方向に向けて大きな声で、しかも実になげやりで面倒くさそうな調子でいいやがった。

「日本が帰るよー、(出口に)案内してー」

「日本が帰るよー」とは何だ。僕は内心あからさまにむっとした。とっさに、ドイツ語の一言を返してやろうかと思った。で、相手があっけにとられるのを見ながら、こんな風に言ってやろうかと思ったことを、今に至るまで忘れないでいる。

「Man muss immer vorsitichtig sein.(いつなんどきも、用心は忘れないようにしなくっちゃねー)」

そんなことがあり、この出張の際には、そのほかにも似たような体験があったりして、「ドイツ人は田舎者でどうしようもないんじゃないか」としばらくは不愉快な気持ちを引きずっていた。

しかし、しばらくして、内心のわだかまりが一段落すると、「ドイツ人は」というくくり方は、やはり間違っているという気持ちが湧いてきた。これは、いまこうして書いてみると、ごく当たり前の感想のように感じられるのだが、しかし、実際には、「ドイツ人は」という断定を乗り越えるのには、それなりに高い感情のハードルがあった。今日は、そのことを書いてみたかった。いまだから、ドイツ人にはドイツ人の文化があるだとか、数少ない個別の事例を立てて、普遍を説くのはよろしくないなどと、常識的な理屈をいくらでも吐けるのだけれど、強烈に直感を刺激された後に、それによってきたる個人的な見解、主張、思い込みを修正するのはそれほど簡単ではない。
もうドイツ語は錆びついてしまい、たぶんほとんどしゃべれないと思うけれど、久しぶりにドイツに行きたくなってきた。