NHK「言葉で奏でる音楽〜吉田秀和の軌跡〜」にもうひと言

「お前、また吉田秀和かよ」と呆れられるのは承知の上で、忘れないうちにこの前の番組の感想を記述しておきたい。今日は、内容そのものに対する話ではなく、番組の作りについて。少し批判的な内容だが、先回りをして書いておくと、これは悪口ではない。番組自体はとても良心的でよいものだった。その上で、もう少しこういう工夫や配慮をしてくれたら、僕としては嬉しかったなという個人的な思いを書き足しておきたいのだ。


番組がとてもよくできていたと思うのは、吉田秀和のことを知らない人、知らない世代が初めてこの番組で吉田に接したときに、俄然興味を持つようなものにちゃんと仕上がっていたという点だ。それこそ制作者の意図したところであるとすれば、目的は十二分に達成できているのではないか。ただ、そうした意図ありきの番組であるが故の限界が明らかに露呈されていた点は惜しい。


この番組には、吉田を語る次のような人々が登場していた。

中村紘子(ピアニスト)
小澤征爾(指揮者)
・長木誠司(音楽評論家)
池辺晋一郎(作曲家)
石田衣良(小説家)
堀江敏幸(大学教授 小説家)


堀江が吉田へのインタビューを担当した。この顔ぶれを見ると、吉田の弟子である二人の演奏家、やはり音楽畑から吉田の同業者としての長木、池辺、文学畑から石田、堀江という布陣だ。


二人の文学関係者のうち、石田は二十代からクラシックを聴き始めた導き手として吉田の文章があったと語る役回りで登場する。この番組を見る吉田から遠い視聴者への心理的な橋渡し役として石田は顔を出す。ある意味でとても重要な登場人物だが、ある意味ではおまけのような立場だ。この番組制作者のポリシー、番組の性格を鮮明にするキャスティングである。もう一人の堀江がこの番組で吉田のインタビュー役として大きな役割を担ったわけだが、彼の存在が弱かったのが惜しかった。


吉田の古い読者で、アンソロジーも編んでいる堀江を連れてくる気持ちは分からないではないが、やはり吉田の魅力をあぶり出すことができるのは音楽関係者だと思う。言いたいことはごく単純で、例えば、ジョブスやゲイツに有能なニュースキャスターが話を聞いても引き出せるものに限りがあるのと同じ理屈である。


一昨日のエントリーで書いた話だが、吉田は小林秀雄の『モオツァルト』にショックを受け、その建設的な批判を行うことをバネに自らのスタイルを確立した人である。もう、そう言い切っていいだろう。だとすれば、吉田が乗り越えてきた文学のヒトにダイアローグの相手を務めさせるというのは、けっこう冒険である。最初で大きな間違いを起こしていると言わざるを得ない。吉田から目の覚めるような発言を引き出せるのは誰よりも一流の音楽家に他ならない。それも、言葉ではなく彼らの演奏によって。それでは番組にならないとすれば、対話の能力のある音楽関係者を連れてくるのが常道だったと思う。文学者は選択肢の最後、昨日のメンツで言えば、長木か池辺のどちらかが適任だったと僕は思う。


吉田の凄さは音譜を読める人にこそ理解しうる。番組は吉田の名を知らしめた名作『主題と変奏』で吉田が行ったモーツァルトのピアノ・ソナタに関する分析を池辺にピアノを弾きながらなぞってもらっていたが、あれこそ小林秀雄を含めてそれまでの音楽評論が発見していなかった新しさ、吉田のスタイルである。今では世の中が吉田を追従しているので珍しくもないかもしれないが、しかし、モーツァルトの真実は音符にこそ現れると吉田が示さなければ、音楽を語ることは楽譜からは離れた成層圏のような場所で「かなしみは疾走する」という文学的にしゃれた言い回しを生み出すことであると見なす退屈な時代が続いただろう。


これは我々素人には見えない部分だが、おそらく事実を資料から丹念に掘り下げる音楽学者から見れば、吉田の仕事にはけちを付けたくなる部分がたくさんあるに違いないと想像もする。例えば、番組に出演していた作曲家・池辺晋一郎は『バッハの音符たち』、『モーツァルトの音符たち』といった楽曲分析をもとにした軽妙洒脱な最近の著作があるが、これらは池辺本人が言っていたように吉田の方法論を用いて作曲家の耳でそれを洗練させたような仕事である。ただ、こうした著作、あるいは音楽学者の精密な仕事を読んだ後に吉田の著作に戻ると、そのときに感じる魅力は何なのだろう、やはりそれは文学者としての吉田の魅力、音楽の専門家にはない言葉の人、吉田の魅力と言わざるを得ないのだ。だから、番組でもインタビュアーは、ぜひ池辺か長木であって欲しかったというのが、僕の無い物ねだりである。


もう一つ加えると、ホロヴィッツを「ひび割れた骨董」と評した有名な話のときになぜNHKが放送した演奏会当日、休憩時に会場で行った吉田へのインタビューの映像を使わなかったのだろうと思った。あれは、吉田がマイクを向けられてさっと「ひび割れた骨董」という言葉を掴まえてきた様子を捉えた映像で、言葉の人吉田秀和の凄さをよく表していた。当時、テレビを見ていて驚いたものだ。朝日新聞に掲載されたくだんの文章よりも、あれを挿入するべきだったのに。昔の映像を入れるのは制作者にはためらわれる行いなのだろうなとは思った。


それからだいぶ以前に放送した別の番組で、吉田はホロヴィッツ本人から東京公演の後に行った数十年ぶりのモスクワ帰国公演の模様をテープで送られてきた話をしていたが、あれももう一度見たかった。再放送でいいから、別の機会でいいから見たい。酷評だった東京公演の後に行った演奏会で素晴らしい演奏を聴かせた二十世紀を代表するピアニスト・ホロヴィッツが、周囲の人に「これを吉田に送れ」と命じたという話をした後で、吉田は「これは自慢話」と例のはにかむような、楽しそうな表情を見せていた。