また大谷さんの話で恐縮ですが

また、大谷翔平選手の記事の話になるが、昨日のこの記事はよかったな。


■豊浦彰太郎『酷評から絶賛へ 米メディアの大谷翔平報道「手のひら返し」をどう解釈すべきか』(yahoo!Japanニュース 2018年4月10日(https://news.yahoo.co.jp/byline/toyorashotaro/20180410-00083810/


日本の報道のあり方をテーマにした内容で、日本の大谷記事の多くが「アメリカのメディアは開幕前には大谷を酷評していたのに、開幕後の大活躍で「手のひら返し」の賞賛が相次いでいる」と語っているが、それは違うのではないか。もちろん彼の能力を疑い酷評する記事はあったが、きちんとサンプルサイズを広げて様々な記事を読めば、模様眺め、本当に大谷を評価ができるのはこれからと語っていたのがアメリカの記事の主流であって、「手のひらを返した」というのは一部の媒体に対してしか当たらないのではないかという話。

これは、著者の豊浦さんの言う通りだと思う。直近で書いたように、日本のスポーツ新聞は極端な見出しをつけて読者を誘導するのが当たり前の世界だが、それが外国の話題だとハッスルに輪がかかる。しかし、外国からの輸入選手や新人に対しては、記者やコメンテーターにより様々な解釈が出るのがかの地では当たり前で、極端な意見を拾って「アメリカでは」というのはいい加減止めにしてほしい。

ここ一週間は大谷の陰に隠れてしまっているイチロー選手だが、彼に関する記事はその手の書き方が常態化していると言ってよいのではないか。どこかのメディアが「イチローのキャッチが素晴らしかった」と記事にすると、「アメリカが熱狂している」みたいな表題やリード文をつけるのは彼らの常とう手段だが、「熱狂」は今回の大谷騒動のような場合に使うのが正しい表現であるはずだ。

あと、次の記事のように、それって記事かよ、単なるアメリカの記事の翻訳じゃないか、というのもどうかと思う。ここまでくると、引用の域を超えているとしか感じられない。


■『イチローが米メディアに大谷翔平について語る。「ただ信じられない」』(livedoor NEWS 2018年4月11日)(http://news.livedoor.com/article/detail/14564025/


開高健の代表作『夏の闇』で、欧州で女一人、苦労を重ねてきたヒロインが主人公の日本人小説家に向かって、こんな風に毒舌を吐く場面がある。

日本の新聞にでてる外国報道の記事が各社とも似たりよったりでしょう。それも為替交換所みたいに仲間同士でやりとりした情報がネタだし、たいていはこちらの記事にでた記事の焼き直しよ。ひどいもんですよ。新聞記者というのは新聞にでた記事を書くから新聞記者というのよ。ここの新聞記者たちが笑っているわよ。


『夏の闇』は1971年、昭和46年の小説だが、それ以降外国報道と我々日本人の関係はそこいらの部分はあまり変わっていないのだ。もっとも、最近のWebの記事はちゃんと元ネタを明記しているから、およそ50年でその分だけは進歩したのかもしれない。1995年にWebが世の中に出た直後の頃には、アメリカの新聞やテレビを見ていないと書けないはずの日本語の記事があったりしたのを覚えているから、ズルはその頃までは確実に生きていたのだけれど。

日本でこういう焼き直し記事が存在できるのは、日本の読者が外国語を読めないと高をくくっているからだろう。読者の側にだって、日本語に訳してもらいたいというニーズは、今はまだかなりあるに違いない。しかし、AIがさらに発達し、外国語の翻訳が機械任せでまったくオーケーになる世の中はたぶんすぐそこまで来ているだろうから、その時、これらの記事はあっという間に絶滅するのではないか。マスメディアやライターさんにとっては辛い話だろうが、恣意的な情報操作の可能性が減る分、それは市民社会にとっては悪い話ではない。

日本のスポーツ記事の見出しを見て思ったこと

大谷翔平選手の活躍が大いに話題になっている。今もNHKが夜10時のニュース番組『クローズアップ現代』の枠で大谷選手を取り上げていたのを見たばかり。アメリカの新聞記事電子版を見ても大谷のニュースはここかしかにあり、日本人選手への注目の度合いとしては、すでに過去のあらゆるケースを超えているかもしれないと思えるほどだ。

お調子者の野球ファンとしては、アメリカの記事も、日本のヤフーなどの記事も片っ端から読んでみた。だいたい日本の記事は「アメリカのメディアがこう言っている」、「選手がこう言っている」という、ある意味お定まりの海外スポーツ報道のスタイルで、最初にアメリカの記事を読んでしまうと、それらに書かれていることばかりなので、どうしても二番煎じの感があり、あまり面白いものがない。

ところが、一つ気を引かれた見出しがあった。それがこれだ。

『日本流の技術で打った初ホーマー。大谷翔平が真に全米に迎えられた日。』(NumberWeb;2018年4月4日)
http://number.bunshun.jp/articles/-/830400?utm_source=headline.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=directLink


「日本流の技術で打った」というのは具体的にどのような技術なのか。それはアメリカ人の記者には絶対に書けない視点だと、期待して記事を読むと、しかしそれらしい記述が見当たらない。いつもの斜め読みが災いしているはずだと、もう一度読み直すと、つまり日本の記事ではあちこちで紹介されている事実である開幕直前でのバッティングフォームを改造が記事の中心的なトピックとして紹介され、「自分の中ではスタイル的には大きく変わってない」という小見出しとともに大谷の次のようなコメントが紹介されている。

「長くボールを見ることができてるんじゃないかと思います。(フォームは)見た目には大きく変わっていますけど、多少、動きを省いただけ。スイングの軌道を変えたりとかはしていない。
 自分の中では、スタイル的にはそれほど大きく変わってはいないんですけどね」

足の上げ方は変えたが、本人の意識としては、それは大きな変化ではないと語る部分が、デスクによって「日本流の技術で打った」という見出しにされてしまったということのようなのだ。なんともはや。

私はかれこれ10年もブログを維持しており、時々マイナーな媒体に記事を書いたり、勤め先の広報誌を作ったりしているが、いつも思い続けているのは見出しを付けるのが下手だということだ。つまりセンスがない。それは「見出しをつけなければならない」という意識とともに、あらゆる記事を書く毎に感じる引け目である。

センスがある者は、人惹きつける見出しを作り出す感性と技術を身に着けており、あちこちの記事に書いてある大谷のバッティングにおける踏み出し方の改善の話から、本人が「変えていない」と言っている事実に着目し、それはつまり、日本で高校野球プロ野球のファイターズで教わった技術を基にした「日本の技術で打った」のだという見出しを創造する。本文にはそれらしい記述はまったくなく、著者には「日本の技術」が頭にあったとは思いにくい。そこに魔法のスパイスがひとふり。「日本の技術とはなんぞや」と私のような獲物はすぐにそれに引っかかる。大したものだと思う。

私が見出しを付けるのが得意ではないという話はここまでで、本当に言いたいことは、取材で獲得した事実を無視した、あるいはテキスト本文の内容に無用の尾ひれを付ける見出しは嫌いだということだ。何故ならば、それは見出ししか見ずに本文を読まないものに確実にある種の間違った印象を与えることになるし、テキストを読む者にも、場合によっては間違った読み方へと誘導する危険性を含むからだ。テキストの内容を超えてサムシングを盛る見出しづくりは週刊誌やスポーツ新聞の得意技だが、それをするか、しないかで、その媒体は自らの立ち位置を明らかにする行為を行っているということは間違いない事実だろうから、真面目な記事には、天から降ってきた「日本の技術で打った」は要らない。

これはたかだか野球の話だから、そんなこと面白おかしければいいのだという意見は強くあるだろうが、大谷選手の個人的な能力や努力や創造力を、「日本の技術」という表現にわざわざ置き換えてバンザイする姿勢は、ちょっと精神的に軽すぎるし、要らぬおせっかいで気持ちの悪いものを感じる。アメリカの記事は大谷個人の凄さを問題にしているが、日本の記事は、基本は米国同様、大谷個人の並外れたこの力を取り上げつつ、すきあらば、我が日本人であるところの大谷を問題にしたくなるようである。後者のスパイスがちっとした味付けであったり、程度の問題であればいいのだが、日本人の意識や社会規範の寄って来るところにある集団主義と、自分たちが他者・他国との関係でどのような地位にあるかを常に問題にする序列意識が、海外で活躍する日本人スポーツ選手に対する記事のレシピには素材として明記されているようで、それが日本人の大好きな味付けなんだということは分かって入るが、大谷選手個人と私たち日本人共同体のもたれ合いを当たり前のものとした記事の書き方はせずに、「大谷という個人がすごいのである」という記事を書いてくれるライターが増えて、そんな記事を私は読みたいと思っている。

Facebookのこと

Facebookに登録したのが2009年頃らしいのだが、それ以来、まれにアプリを開いてみることはあっても、ほとんどまったくと言ってよいほど能動的には使っていなかった。つまり、コメントしたり、「いいね!」を付けたりなどしないで、単に最近どんな投稿があるかをしばし眺めるということを月に1度、半年に1度するといったぐらいことしかしない。だから、つい最近、5年も6年も前に「お誕生日おめでとう!」というコメントを何人かの方々からいだだいていながら、なしのつぶてでなんにもしていなかったことを発見したくらいである。ひどい。

Facebookは知り合い向けお知らせメディアだから、私のように別にお知らせも、知らせたいニュースもほとんどない人間には向いていない。それはそれで、既存の枠組みを面白おかしく活用するような才覚があれば話は別だが、そういった才能からは最も遠いところにいるので能動的に食指は動かない。それにFacebookは、そもそもあれやこれやお節介がすぎる。誰とかの誕生日だとか、フォロワーが何人になって友達の輪が広がっただとか、知り合いの知り合いにこんな人がいるだとか、なんだとか、かんだとか、だからどうしたと言いたくなる一方向の知恵を授けたがる。こんな奴が生身の人間で隣にいたら、到底我慢ができないだろう。うるさい! できるものならドロップキックをお見舞いしたいぐらいだ。できないけど。

しかし、世の中のメインストリームはFacebookInstagramなので、そういったところにしか出入りしていない知り合いに向けて「生きてるよ!」と言う代わりに、Facebookに向けて仕事絡みのトピックを書いてみることにした。更新は1か月に一度あれば御の字。「お友達の輪を広げましょ!」という動機はもとよりないので、面白おかしい内容はほとんどないはず。それぐらいの意気込みなので、続くかどうかは分からないが、おかげで人の投稿をよく見るようになった。週に2,3日以上はFacebookを覗いている。友人たちの身辺雑記を読むのはとても楽しいが、やはりFacebookの枠組みはどこかしっくりこない。

ジョン・アダムスの『アブソリュート・ジェスト』は面白い

1月27日(土)と28日(日)の2日、NHK交響楽団が、アメリカの作曲家であるジョン・アダムスの『アブソリュート・ジェスト』を演奏する。2015年3月にウィーンを旅行した時に、ちょうど作曲者のジョン・アダムス本人がウィーン交響楽団に客演をしていて、この曲のウィーンでの初演を指揮したのに立ち会えた。とても面白く、よくできた曲なので、現代音楽が好きな方はお聴きになってみては如何だろう。生でなくても、Eテレの『N響アワー』でもそのうち放送されるはずだ。

『アブソリュート・ジェスト』は日本語にすると『冗談の極み』といったことになるだろうか。ベートーヴェンの第9や、弦楽四重奏曲の第13番、『大フーガ』などのメロディを巧みに用いてというべきか、それらの曲を換骨奪胎してというべきか、オーケストラのために仕上げた現代曲である。

曲は大した長さではなく、たしか一楽章ものだったというぐらいの記憶しかもうないのだが、オーケストラの前に弦楽四重奏を座らせ、ベートーヴェンのメロディの断片を用いた「冗談」が繰り広げられる。何が冗談なのか、聴く人が聴けば即座に紐解けるのかもしれないが、正直なところ言葉の本当の意味はよく分からなかった。私が聴いたウィーンのコンツェルトハウスでのコンサートでは、ジョン・アダムスが演奏前にマイクを持ち、「私のドイツ語はほんとに片言程度で」などと言いながら、澱みなく自作の解説をしていたのだが、肝心な部分は語学力の欠如で残念ながらついていけなかったので、「冗談」は未だに謎である。たぶん、N響のコンサートに行けば、パンフレットに解説があるだろうし、『N響アワー』でも教えてくれるだろうから、3年ぶりの謎解きを楽しみに待つことにする。

楽聖ベートーヴェンの、シリアスなメロディを換骨奪胎すること自体が、クラシックの作曲家にとっては「冗談」以外の何物でもないのかもしれず、実際、曲想はベートーヴェンのメロディがそれと分かるように活用されつつ、素っ頓狂な和声で包まれたり、へんな転調をしたり、といったところは、たしかにシリアスな曲には聴こえることはないし、そのへんてこりんさ加減が実に面白い、ということは間違いない。「冗談」って、そういうものなのかどうか、そこは謎の極みではある。

指揮はピーター・ウンジャンである。それ誰だっけ、そんな指揮者いたっけと思ったら、かつて東京クァルテットで第一バイオリンを弾いていたピーター・ウンジャンさんなのだ。腕の故障で演奏家を辞めたと聞いていたが、N響に呼ばれるほどの指揮者になっていたとは知らなんだ。これもまたどんな演奏をするのか興味深い。

ベートーヴェンが好きで、現代音楽が好きだという変わり者のあなたには格好の楽しみになるはずだし、ベートーヴェンはそれほどでなくても、現代音楽が好きというあなたにも一聴の価値はある。ジョン・アダムスはオペラ『中国のニクソン』で最初に記憶にとどめた人が多いのではないかと思うが、今年、ベルリン・フィルがレジデンスコンポーザーに選ぶほどの人気作家になっているわけだし。ただし、あの巨大なNHKホールで、弦楽四重奏とオーケストラを組み合わせた作品が精妙に聴こえるかどうかは保証の限りではない。サントリーホールやタケミツホールならよかったのにと思う。そして、カップリングする後半の曲目がホルストの『惑星』で、これがお嫌いでなければ申し分ないのだが、個人的には『惑星』なんか聴きたくないよと思ってしまうので、放送でよしとすることにする。いずれにせよ、またあの変な曲を聴けるのが楽しみである。

宮田大チェロリサイタル

昨日はミューザ川崎で宮田大さんのチェロを聴いた。
チェロのリサイタルを聴くのは生れてはじめてのこと。弦楽器のリサイタル自体、これまで一度も行ったことがない。自分自身に対して「どうした風の吹き回し⁈」と言いたくなる選択なのだが、ちゃんと理由はあって、数年前に宮田大を一度聴いてびっくりしたことがあったのだ。

記録を見ると2013年11月だが、上岡敏之指揮するところの読響がラーンキの独奏でブラームスピアノ協奏曲第2番をやった。第3楽章でチェロの独奏がピアノに絡むのが印象的な曲だが、その独奏があまりに素晴らしく、ラーンキのピアノを食ってしまうというほどに光っていた。その時は、「日本のオケもトップ奏者になると、あんなにうまいんだね」などと連れと話しながらサントリーホールを後にしたのだが、そのソロが宮田大だと知ったのは、コンサート後数日経ってからのことだ。たしか、誰かのブログにその事実が書いてあったのを読んだのだと思う。

小澤征爾と水戸室内管弦楽団が宮田大とハイドンのチェロ協奏曲第1番を演奏するドキュメンタリーを見ていたので、その存在は知らないではなかったが、本物をそれと知らずに聴いたインパクトはかなり強く、あれが小澤さんが「宮田大ちゃんでーす」とオーケストラに紹介していた人物かと、その美音と精妙な歌いまわしが記憶に残った。いつかはリサイタルを聴いてみたいと思った。

今回のリサイタルは、いつも出掛けるミューザ川崎だったが、去年、アンジェラ・ヒューイットがコンサートを開いたときにほとんど空っぽだった3階席までが、ぎっしりと埋まったのに驚いた。舞台映えする30台のリサイタルだから女性ファンが多いだろうという想像は当たったが、思いのほかその年齢層は高かった。若い女性は宮田大ちゃん知らないのか。いずれにせよ、中年以降のおじさんばっかりのブルックナーのコンサートなどとは同じクラシック音楽といっても別世界である。

曲目もベートーヴェンの『魔笛の主題による7つの変奏曲』を除くと、ファリャ、ピアソラ、カサド、カスプーチンと、個人的にはまったく聴かない作曲家ばかりで、演奏者ご本人が冒頭にマイク片手に述べた通り、お正月明けのライトなコンサートというノリだったが、何を弾いても聴衆を楽しませる音楽性とテクニックは、こちらのお正月気分にもぴったりと重なって、楽しい2時間となった。

ただし、3曲演奏されたアンコールの中の1曲が久石譲だったのには「あれえー」と思ったことではあったが。

夢、ノット指揮東京交響楽団の『ドン・ジョヴァンニ』

兄弟に刺されて人が死んだニュースを何度もテレビで見たのがいけなかったのだろうが、その夜にナイフを持った暴漢に正面から迫られる夢を見て大声をあげ、家族を夜中に起こしてしまった。その翌日、というのは一昨日のことだが、今度は、我が家の居間ぐらいの大きさの会議室で6人がけの会議机に座っている夢を見た。打って変わって静かな夢だった。私は3人ずつ向かい合わせで座っている一人で、ノートパソコンを開き、その画面を見ながら一所懸命に何かのプレゼンをしているのだった。
ところが、ふと目を上げると、先程まで目に前に座っていた人たちは一人も椅子にはおらず、一人は椅子の脇の地べたに腰を下ろして眠りこけており、もう一人は、何故か脇に置いてあるベッドですやすやと寝ている。さらにもう一人の背広姿の男性は音も立てずに部屋を出ていこうとしているところだった。空っぽの部屋に一人残された私は、自分のプレゼンはそれほどまでにつまらないものだったのかと、がっかりしたような、そうかもしれないなと達観したような気分の中で、次第に朝の光を感じ、温かい冬の朝が明けた。
その翌日、というのは昨日のことだが、ミューザ川崎で行われたジョナサン・ノット指揮東京交響楽団の演奏する『ドン・ジョヴァンニ』の演奏会形式の公演があり、騎士団長がドン・ジョヴァンニに刺されて息絶え、さらにその2時間後、ドン・ジョヴァンニ自身が、自らなきものとした騎士団長の亡霊によって地獄に落とされる瞬間を目撃した。
ドン・ジョヴァンニは女好きの悪党で、自分が行った悪事がたたり、因果報応で地獄に落ちる。我々聴衆は、正義がなされ、悪が滅びたことに溜飲を下げ劇場を去るのだが、昨日の公演で常にまして強く心に残ったのは、騎士団長の亡霊から何度も「悔改めよ!」と迫られ、しかし「自分は臆病者だと思われたことはない」と言い放ち、改心を拒否して死に向かうドン・ジョヴァンニの潔さだった。それは架空の人物のセリフであり、何度も聴いた曲なのに、これまで感じたことのない生々しさを覚え、「あっぱれ」と一言かけたいような気分になった。
今年は大病をし、周囲にも大いに迷惑をかけたが、師走には長時間のオペラ公演を楽しむほど回復し、ミューザ川崎の最前列で声のシャワーを浴びて恍惚となり、幸せな時間を堪能できるまでになった。終わりよければすべてよしという格言を信じれば、とてもよい年になったのだと思う。最後はドン・ジョヴァンニにすべての汚れを背負ってもらい、身代わりに地獄に落ちてもらうことによって、そして多くの方の助けによって、今年は無事に生き延びた。
皆様どうもありがとうございました。来年もどうかよろしくお願いします。

ノット指揮東京交響楽団の『英雄』

2週間ほど前に前の音楽監督であるユベール・スダーンのコンサートを聴き、その好印象の余韻の中で聴いたコンサートだったが、いやはや、この日のノットと東響による『英雄』は期待をはるかに超える演奏で、大いなる満足を抱えて帰宅した。

この日はドイツの有名オーケストラのメンバー4人で組織するホルン・ユニットを独奏者に呼んで、ホルンが活躍する3曲がプログラム。リゲティの『ハンブルク協奏曲』、シューマンの『4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック』、それに『英雄』。前半は、上手なホルン奏者を揃えなければ成立しない2曲であり、楽しめた。シューマンは我が家ではテンシュテットガーディナーの録音で楽しんでおり、如何にもシューマンらしいメロディ、音色が全編を支配する、シューマンの明るい側面が表に出たいい曲だが、ホルンがうまくないとさまにならないからか、聴衆の要請がないからか、ほとんどコンサートでは聴かない。生で、上手な奏者で聴けて、とても楽しかった。

そこまでは、期待通りの「よいコンサート」だったのだが、後半の『英雄』はよいなどというレベルをはるかに超えていて、顎が落ちそうになるほど驚いた。このありとあらゆるオーケストラで頻繁に演奏される演目がかぶった埃をすべて洗い流されて目の間に現れたようなヴィヴィッドで熱の溢れたベートーヴェン。ノットの演奏に共通する上品さと桁違いの思い入れがこもったスフォルツァンドが共存する演奏。フルトヴェングラークレンペラーベームカラヤンバーンスタインなどでこの曲を覚えた我々の世代の趣味とは一線を画す、ベーレンライター以降の時代の軽快な流儀と見えながら、世界の底に降りて沈思黙考するような静寂感とマグマが噴き出すような激情が存在する世界がそこにあった。完璧な曲の、完璧な演奏。

東京交響楽団は完全にノットの楽器と化し、集中力の塊だった。オーケストラの鑑賞につきものの、合奏がどうのこうのといった類の、小姑の小言のような素人雀のおしゃべりは一掃されてしまった。

こういうのは私にとっては10年に1度出会えるかどうかのコンサートだ。感情のすべてが途轍もない充実感で満たされた夜。