習い事の価値

私が敬愛する小説家の開高健は、おそらく運動不足や不養生に端を発するものであったろう体の不調に対処するために、50歳を過ぎてから週に2日の水泳を始めた。晩年の彼は、数々のエッセイで、様々な変奏を行うようにその「五十の手習い」に触れている。開高の水泳に相当するのが私の場合にはフルートで、まさかこの歳で再開するとは思ってもみなかった笛吹きを40年ぶりにリスタートし、あまっさえ先月からはプロの先生に教わる次第となった。

 楽器で音楽を奏でること自体、それは常に新しい驚きと楽しさに溢れた時間なのだけれど、それについては、これまでの人生でも知らないではなかった。しかし、教わることとなると話はまったく別で、たった2度、45分の短い教授を得ただけなのに、笛を吹く楽しさは倍加する事態となり、専門家というか、メンターというか、そういう存在の凄さに新鮮な衝撃を受けている。

 この前書いたように、子供の頃からじじいの入口に到達した現在に至るまで、そもそも習い事をするのが生れて初めてである。学校には行ったから、先生の存在は知っているが、今回の先生は学校の教師とはちょっと違う。明確な目的のためにお金を払って、一対一の授業。そういう形態の習い事には縁がなかった。マン・ツー・マンの懇切丁寧な授業などと聞くと、私自身は行ったこともないないが、コマーシャルはやたらと目にする英会話学校だとか、アルプスの少女・ハイジだとかを思い出す次第で、そういうのをやたらすぐに思い起こすこと自体、性根がねじまがっているというか、心が偏見に満ちているというか、素直にその種の価値を信じられない美しい性格を如実に表している。

 もっとも、そうした疑いを抱く根拠というのも、思い起こせばしっかりとあるのであり、自分の子供がかつて予備校の講師をしたり、某非営利団体で子供を教えたりしているときに、それともなく、あるいは鬱憤を吐き出すように語っていたところが頭によぎる。宣伝は格好よいが、実質が伴わないセンセ、そんなセンセですら十分な人数を確保しないまま悪徳な商売をたくらむ輩は平成元禄の日本にはびこっている気配があるのであり、そんな中で、よいセンセを見つけて成果を上げるのは、簡単にできるとは限らない。違うだろうか?

というのもあるが、そもそも型にはめられるのを極端に怖がる性格に問題はあるのである。私は学校とか、先生とかいうものがきらいで、今でも学校に遅刻するだとか、学校の単位数を間違えて卒業できないだとか、ろくでもない夢を頻繁に見る。であるからして、何を好き好んで自ら学校や先生につくなどという愚行をおかすことがあろうや。と、私はたぶん思っていたのだ。

でも、今回のセンセは本物の本物だった。私は単に運がよかったのか、センセに習うとはそういうものなのか、よく分からない。答えはその間にありそうだが、今回は「あたり!」の感覚は強くある。人生、たまにはあたりもなくては。