ノット指揮東京交響楽団の『英雄』

2週間ほど前に前の音楽監督であるユベール・スダーンのコンサートを聴き、その好印象の余韻の中で聴いたコンサートだったが、いやはや、この日のノットと東響による『英雄』は期待をはるかに超える演奏で、大いなる満足を抱えて帰宅した。

この日はドイツの有名オーケストラのメンバー4人で組織するホルン・ユニットを独奏者に呼んで、ホルンが活躍する3曲がプログラム。リゲティの『ハンブルク協奏曲』、シューマンの『4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック』、それに『英雄』。前半は、上手なホルン奏者を揃えなければ成立しない2曲であり、楽しめた。シューマンは我が家ではテンシュテットガーディナーの録音で楽しんでおり、如何にもシューマンらしいメロディ、音色が全編を支配する、シューマンの明るい側面が表に出たいい曲だが、ホルンがうまくないとさまにならないからか、聴衆の要請がないからか、ほとんどコンサートでは聴かない。生で、上手な奏者で聴けて、とても楽しかった。

そこまでは、期待通りの「よいコンサート」だったのだが、後半の『英雄』はよいなどというレベルをはるかに超えていて、顎が落ちそうになるほど驚いた。このありとあらゆるオーケストラで頻繁に演奏される演目がかぶった埃をすべて洗い流されて目の間に現れたようなヴィヴィッドで熱の溢れたベートーヴェン。ノットの演奏に共通する上品さと桁違いの思い入れがこもったスフォルツァンドが共存する演奏。フルトヴェングラークレンペラーベームカラヤンバーンスタインなどでこの曲を覚えた我々の世代の趣味とは一線を画す、ベーレンライター以降の時代の軽快な流儀と見えながら、世界の底に降りて沈思黙考するような静寂感とマグマが噴き出すような激情が存在する世界がそこにあった。完璧な曲の、完璧な演奏。

東京交響楽団は完全にノットの楽器と化し、集中力の塊だった。オーケストラの鑑賞につきものの、合奏がどうのこうのといった類の、小姑の小言のような素人雀のおしゃべりは一掃されてしまった。

こういうのは私にとっては10年に1度出会えるかどうかのコンサートだ。感情のすべてが途轍もない充実感で満たされた夜。